人類は、たぶん肉しか食べなくても生きていける。それが健康的な生活なのかと言えば、そうではない。体臭はきつくなるし、脂っぽくなる。なんとなく疲れが取れないという日が続くことだろう。あまり長くは生きられないかもしれない。
個人という意味では、まともに生きられないのだろうけれど、何世代かあとの時代には肉だけでも十分に生きていられるようになってしまう可能性もあるのじゃないかと思う。なんというか、まぁ種としてはなんとかなるんじゃないの?
いろんな食や料理について勉強をしていて、ぼくら人類が雑食であるということには、それなりの意味があると考えるようになってきた。意味があるというと、ちょっと感覚が違うか。雑食でることが、種の保存に有利だったのだ。
調理を必要としない食料は、世の中にどれほどあるだろう。米や麦はダメだし、そばもダメ。ソルガムもヒエもアワもダメ。穀物は全部調理が必要だ。野菜はけっこうイケる。大根、人参、キャベツ、レタス。うん、全部じゃないけれど、それなりに生きていけそうだ。果物は、逆にほとんどのものが調理をしなくても食べられる。類人猿がフルーツを好むらしいのだけれど、元々調理をせずに食べられる食料としてフルーツに頼ってきたということなのかもしれない。
加熱調理、つまり火を扱えるようになったということは、人類の発展にどれほど大きな影響があったかと思いを馳せると、気が遠くなる。二足歩行や脳の発達も、火の獲得がきっかけだと聞いたことがあるけれど、だとすればホモ・サピエンス=「賢い猿」は火によって生まれたということになる。
あれこれといろんなものを食べる必要があるというのは、必要な栄養を一種類だけで補うことが難いから。それは栄養バランスという意味でも、必要なエネルギー量の確保という意味でも、だ。もし、はるか昔から完全栄養食があったのなら、現代のように様々な食料を口にする必要もなかったはずだ。
現生人類が健康的に種の繁栄を謳歌するのであれば、多様な食料を食べなければならない。そこで活躍するのが、他の生物。水の入手が困難な地域では、例えばミルクやブドウが活躍する。人が食べられないイネ科の葉っぱを食べて、水分や栄養素を蓄えてミルクに変換してくれる。人間にはとてもかき集められないほどに土中に分散した水分を、ブドウは根っこを通してその実に集約してくれる。あらゆる環境に存在しているあらゆる原子を、どうにかこうにかして人間が食べられる状態に変換してくれている。人間目線で見れば、食料となる生き物は実にありがたい存在なのだ。
いろんなものが、僕達に都合の良いカタチに変換される。そして、ぼく達も別の誰かにとって都合の良いカタチに変換されていく。循環というのはそういうことのような気がしている。
今、食糧問題だとかエネルギー問題とかは、この循環の歪みそのものの話をしているのじゃないだろうか。なんだかバランスが悪いんじゃないの?という感覚。人間にとって都合の良いカタチの量が多くなりすぎていて、他の誰かにとって都合の良いカタチが少ない。
もしそうなら、「他の生物にとって都合のいいカタチ」を考えることが大切になる。ある意味「捨て方」とも言えるし、「環境整備」とも言える。
アニミズムバンザイというつもりはないし、他の生物に人権の概念を取り入れようというつもりもない。もっと実利的な考え方でバランスをとろうとすれば、そうなっちゃうんじゃないかと思う。
今日も読んでいただきありがとうございます。無為に近づけば自然の摂理にしたがって勝手に整う。なんてことを老子は言ったそうだけれど、もうちょっと人為的に自然にアプローチしなくちゃいけない時代になったんだろうなぁ。酒のあてに、こんなことを考えていたのだけれど、だんだんゴチャゴチャになってきたので、このへんでおしまい。