ぼくは、あまり食事の写真を撮らない。特にそういうポリシーがあるわけじゃないんだけど、忘れちゃうんだ。撮影したとしても、ちょっとした記念みたいなもので、料理のすべてを撮ることは少ないかな。旅行の写真みたいな感覚。コース料理のすべてを撮影するときは、仕事の参考になりそうな資料という意識だ。これは、職業病みたいなクセかもしれない。
携帯電話にカメラが搭載されるようになって、すごく変わった。昔の写真を見ると、その多くはこちらに笑顔を向けた人が写っている。被写体となった人物は「写真に撮られる」という意識があったように思う。そもそも、カメラを持ち歩く習慣のある人のほうが少ないから、写真というのはイベントの一コマを捉えたものだった。今では、常にカメラを持ち歩いているのが普通だし、日常の何気ない瞬間を捉えることが出来るようになった。
日常のほとんどのことは、流れて消えていくもの。だと思う。昨日何をしたのか、何を食べたのか、なんてことは、普段なら思い出そうとしない。食べたものを記録するのはダイエットをするときくらいだろうか。ニュースだって、会話だって、流れて消えていくのが普通だったと思うんだ。花火みたいに、印象だけを残して消えていく。楽しかったとか、美味しかったとか、そういう印象だけが残る。
残り続けるものは、書籍とか現代なら動画や音声。これらは、後になっても検証ができる。調べ物をしていて本を読むことが多いのだけれど、その本がいつ書かれたものかをチェックするクセがついた。それは、どんな時代でどういった常識があって、どんな研究が行われていたのかを確認したいから。この頃の筆者はこう思っていたんだな。でも、後になって意見が変わったんだ。と思うこともある。別の人が研究を進めていることもあるし、反論が出ることもある。そうやって検証される存在なんだと思う。
カメラの偏在化とSNSによって、本来なら「印象だけを残して消えていくもの」が、検証可能になった。書籍みたいに残るようになったんだ。
良し悪しはわからないけれど、少しばかりめんどくさい。
ぼくは、本を出版したことはないけれど、ポッドキャストという形でコンテンツを作っている。数年前の音声を今でも聞くことが出来る。それは良いんだ。そのつもりでコンテンツを作っているから、間違いも含めて制作者であるぼくの責任だという覚悟がある。本だって、残り続けて検証されるものだという意識のもとで書かれているだろうから、著者にもその覚悟があると思うんだ。そのための準備をするだろうしね。
ただ、日常の思いつきが残ることには、後になって検証される覚悟がない。後になって、あれこれと価値判断されても困るわけだ。だいたい、意見なんて変わるものだし。ぼくみたいな一般人が、あれこれと批判されることはほとんどないけれど、著名な人はタイヘンな時代になったと思う。ほんの少しでも気を抜ける時間がない。情報番組を見ていると、VTRが流れている間も出演者の顔がちっちゃく写っている。あれでは一息つく暇もないじゃない。
SNSでは、随分前の発言を切り取られて批判されている人を見かけることがある。タイヘンな時代になったもんだ。消えることが前提だと、無責任な発言が増えてしまうかもしれないけれど、だからといって全ての言動が検証可能だというのも息苦しい気がする。
料理は、ひとつも手を抜いているつもりはない。だから、写真を取ってもらっても構わないんだけど。でも、クオリティには変動するものなんだと思っておいたほうが良い。去年と同じ料理を作ってくれと言われても、全く同じものなんて出来ないもの。食材も変われば、つくる人も変化するから。そもそも、どんな料理が提供されて、それぞれの味がどんなものだったかを正確に記憶している人なんて、ほとんどいない。よほど印象に残った料理があればそれを覚えているかもしれないけれど、あとは忘れちゃうんだ。旅先の旅館で食べた料理の一品一品を思い出せる?
記憶に残った印象って、検証が出来ない。だからこそ、気が引き締まる思いがするんだ。せっかくの外食なんだから、少しでもいい気分になってもらいたいし、それはいい思い出にしてもらいたい。料理の写真を撮るのも良いけれど、その写真が、その時の雰囲気を思い出すためのきっかけになったら良いな。と思う次第だ。
今日も読んでいただきありがとうございます。体験と、体験から得られる感情とか学びって、良いよね。それって、その時の自分にしかできないことで、今同じ体験をしても違うことを感じるはずなんだ。「体験を通して得た感覚」と「検証が必要な事柄」は、分けて捉えたほうが良い気がする。