とにかく味見をする。当たり前といえば当たり前なんだけど、調理を仕事にしている人が味見をする回数はとても多い。料理を作るときに、味を決めるためにチェックするのはもちろんのことだけど、それ以外にも味見をする。ぼくの感覚としては、3つの目的があると思っている。
ひとつは食材の味見。生で食べてみる。茹でたり蒸したり焼いたりして食べてみる。調味料を使わずに、素材の味を確かめたり、場合によってはちょっとだけ調味料を付けて調味料との相性を確認したりする。料理のもとになる材料だからね。その特性や個体差がわからないと、その後の料理に影響するって言うわけだ。
それらの材料を組み合わせていくと、料理になる。複合するときに料理の味を作っていくのだけれど、その過程でも味見をする。素材と素材の味が、うまく調和しているかどうか。塩味が足りているか。甘すぎないか。たぶん、ほとんどの人は経験したことがあるだろうと思う。
で3つめは、他の人が作った料理の味見だ。外食でもそうなのだけれど、調理場にいるときだって親方が作った料理の味は、チャンスさえあれば味見する。もちろん、知りたいからね。
味見ってすごく大切。味見をしない料理人は、一生成長しないと言われるくらいに大切。
食事を美味しいと感じるかどうかは、数値で定めることは難しい。いや、一定程度の「正解の範疇」に収めることは出来るのだけれど、微調整が出来ないのだ。なぜ出来ないかと言うと、あまりにも多くの変数が介在するから。食べる人の趣味嗜好もあれば、その時の体調にも左右される。気温や湿度、季節などもそうだし、知識や知覚情報も「美味しいと感じる感覚」に影響する。数学の世界に解けない関数が存在するようが、構造は理解できたとしても、変数を捉えることが困難だという場合があって、料理を深く追求していくとこの壁に突き当たるというわけだ。
そこで役に立つのが人間の感覚。もちろん、必ずしも精度が高いとは言わないけれど、関数を解かずに一挙に解を導いてしまうのが「感覚」なのだ。だから、感覚を鍛えるのだけれど、そこに「無数の味見」が有効だと考えている。
コンピューターに置き換えると、ディープラーニング。よくわからないけれど、とにかくサンプル数を増やしていくと解を導き出してしまう。100やそこらの数だと何も起こらないけど、何万にもなると別の挙動をするという、あれだ。
食材の素の味をインプットしまくる。調理過程の味をインプットしまくる。そうすると、あるタイミングで、脳内調理というのが出来るようになってくる。これが、自分でも不思議なのだけれど、実際に調理してみなくても、なんとなくこんな方向性の味になりそうだなということが感覚的に捉えられるようになるんだ。やってみたら違ったなんてこともあるけど、経験の多い調理方法や食材なら、だいたい良い按配に落ち着くんだよね。無理やり科学で例えるなら、理論物理と実験物理みたいな感じかな。理論ではこうなるはずだから、ちょっと実験してみようってな具合。その理論の部分が、理論構築ではなくて物量に支えられた感覚。
親方の料理を味見するのだって同じこと。同じ環境で仕事をしていて、使っている食材も知っている。食べる人も、もちろん分かっている。だいたい同じような環境にあるわけだから、違うのは作り手だけ。同じ状況下でも、圧倒的にデータ量の多いコンピューターの方が、そうではないものよりも精度の高い解を導くことがある。コンピューターっぽく言えば、処理速度も早いし計算制度も高いし、なによりディープラーニングの対象となるデータ量が圧倒的に多い機体。学習量の少ないコンピューターとは異なる解を導くのは当然のことだろう。
以前、とある料理人がこんな事を言っていた。彼の手ほどきで奥様が料理を作ることがあって、それを食べてみると、なにかが違う。ふたりともそう感じるのだと。で、もしかしたら、料理が上手な人って料理がおいしくなるナニカが体から出てるんじゃないかって。まぁ、そんなことは無いだろうけどさ。
今日も読んでいただきありがとうございます。1万時間理論っていうのがあるけど、量って大事なんだよね。頭がオカシイんじゃないかって思われるくらいの量をこなしていくと、因果関係を明確にすることは出来なくても、一定の解を導き出してしまう。それが原因で科学に反した結論に到達してしまうリスクもあるんだけど、一方で役に立つこともすごく多い。料理に関するAIが、人間の料理人と同じステップでディープラーニングをしたら、また新たな世界が生まれるかもしれない。