日本料理の業界では、結構細かなところまで指導されると思う。そんなにたくさんの料亭の事情を知らないし、現在の修行の現場がどうなっているのか知らないのだけれど、ぼくが知る限りでは細かい。で、どう細かいかというと、包丁の取り扱いやら、冷蔵庫の整理、身だしなみ、手ぬぐいのたたみ方、調理台の掃除など。もちろん、料理に関することもあるのだけれど、所作のひとつひとつにまで口を出す。
衛生管理という意味もあるけれど、それ以上に「職人としての修練」にとても重要なのだ。たぶん、和食に限った話ではなくて、例えば漆職人とか陶芸家とか大工とかでも同じじゃないかと思うんだ。
料理が美味しくて、ちゃんとキレイに出来ていて、お客様が喜んでくれるのならそれで良いじゃないか。若い頃にはそう思ったこともあるのだけれど、やっぱり意味があるんだと気がついたのはいつ頃だっただろう。会社員だったころも、デスクはきれいに拭くし、書類はきちんと揃えるし、靴を脱いだら揃えるし、ということを意識するようになっていた。見た目が良いから、というのは営業マンの考え方かもしれないけれど、そうじゃないんだ。本質は自分のためだと感じられるようになったのは、その頃かな。
話は、日本や東アジアの文化的背景に遡る。
老荘思想の考え方の中に、無為自然というのがある。人為的に力を加えなければ、自然はやがてちょうどいいところに適切に収まっていく。その時その時で、そのちょうど良さは違うのだろうけれど、揺れる振り子が収まるように、あるべきところに収まるんだという考え方。すっごく雑だけど、ぼくの解釈ではこんな感じ。
で、もう一つ大切なのは、すべてが相対的という感覚。あらゆるモノは絶えず変化し続けていて、その瞬間ごとの関係性でしかない。まるで量子力学だ。距離とか影響力とか、そういったものが互いに関係し合っていて、自然の中でスポッと収まっている。私とあなたと他の誰かで、一人が抜けると、絶妙に関係性は変化していく。
うまくいえないけれど、ぼくはサッカーをイメージして解釈している。選手がポジションが流動的に動いて、それに呼応するように仲間も位置を変える。敵チームもそうだし、ボールの位置も変わる。ひとり選手が入れ替われば、やっぱり関係性は変化する。
この相対的な関係性を、人と人だけでなく物と物、人と物の間にも見出している。だから、自分の振る舞いによってモノはいかようにも変化するし、モノのありようによって自分も変化する。仏教概念にある梵我一如というのと似ているのかもしれない。全ては自分と一体、ひとつは全で全はひとつ、一円。どう言い換えても良いのだけれど、世界は相互作用のある関係性で結ばれていて絶えず変化していく、ということを言っているのだと思う。
中華大陸を経由して日本にもたらされた思想で、実はもっとも影響力の高いのは老荘思想なのじゃないかと思う。というのも、日本にやってきた仏教は中華を経由したわけだけれど、中華文化では仏教と禅を理解するために、ツールとして老荘思想を使ったのだ。仏教伝来以前から老荘思想や儒教は日本に伝わっていたと考えられていて、日本古来の神祇信仰とも親和性が高かったようだ。結果として、いわゆる宗教というものではなく、思想観念として日本に広く定着したのだろう。
鎌倉時代、日本に禅宗が日本に伝えられると、日本の料理文化が変化する。動物性食品を用いない精進料理は、やっぱりどこか物足りなくて出汁や調味料を使ってしっかりと味付けされるようになった。元々、日本は水が豊富だったことから汁物などで出汁の文化が生まれていたらしいから、それとうまく融合したのだ。これをベースにして室町時代までに、現代に続く和食の原型が形成されていった。日本で展開される食文化には、多かれ少なかれ精進料理の影響がある。
つまり、和食には禅宗の思想観念が組み込まれているということだ。
禅宗の修行では、みんなが一様に寺の雑事につく。それも、どんなに些細なことであっても完全に行うことを求められる。凡事に集中することそのものが、禅の修行の一部なのだ。夢中になることで、心を研ぎ澄ませていく。無心になると聞いたことがあるけれど、個人的には「超集中することで他のことが考えられなくなり、自分と事象との間柄だけに意識が向く」という状態のことを言っているのじゃないかと思っている。
明治期、日本文化を海外に紹介したことで知られる岡倉天心は、その著書「茶の本」の中で「禅は身をやつした道教である」と言っている。これは、歴史的にも関連があるし、思想を具体的な行動様式に落とし込んだという意味でもあるのではないだろうか。茶の湯も精進料理も、禅宗から生まれた兄弟のようなものだけど、どちらも「どんな些事でも徹底的に完全を求める」ことを要求される。それと同時に「完全を求める行為そのものこそが尊く、実際には完全など存在しない」という意識を持つことになる。
これまでの話をつなげて考えると、どうなるだろう。モノづくりの結晶であるモノは、周辺の他のものや私や他の人と関係性があって繋がっている。関係性がある以上は、なにかしらの影響を与え合っている。料理が、完全に素晴らしいものになってもらいたいと願ったら、食材だけでなく道具やそれを扱うい人もまた、完全を目指す。ということになる。
日本の伝統的なモノづくりに脈々と流れる思想観念は、おおよそこういったものなのだろう。そして、道具や場を清めたり、些細なことも徹底的に完全に磨き上げることも、こうしたところから繋がる文化的背景だと思っている。
冒頭に挙げたように、些細な行動の一つ一つ、戸の開けしめなどの所作に至るまで完全であろうとすること。それを指導することは、まさに禅宗的であるし、老荘思想につながることだ。
会席料理や茶懐石、本膳料理などは、上記のことを前提にしている。個人がどう思おうと勝手ではあるのだけれど、特にこのカテゴリでは「正」が定まっているんだ。だから、まず最初に所作全てに完全を求める指導をして、日本の料理とそれに宿る精神とはなんたるかを説こうとしているのだ。
ぼくは理屈っぽいのでわざわざ言語化を試みたわけだけれど、実際の現場ではもっと直感的に伝わっているはずだ。仮に言葉で答えられなかったとしても、それが理解していないということとイコールではない。親方という人たちは長年料理に向き合ってきたわけで、それはずっと禅の修行してきた人たちとも言えるんじゃないかな。
僕の若い頃がそうだったように、「料理という成果物が出来ているのだから良いじゃないか」という人もいる。「わたしにとってのキレイの状態は違うので、従わない」という人もいる。彼らは、おおむね合理的だと思っているし、個人主義を主張するんだけどね。「思想観念とその表出としての食」という視点からみると、非合理的だしナンセンスということになるはずなんだよ。
今日も読んでいただきありがとうございます。これ、料理をやっていてもモノづくりをやっていても、言語化して教えてくれる人なんてほとんど聞いたことがないんだよね。だいたい、言葉で言われなくちゃ気が付かない弟子は、センスがないって言われる。厳しい感じがするよね。だけど救いがあってさ。師匠にくっついて、行動や物の考え方をトレースするという道を用意してくれているんだ。誰でも言語化が得意なわけじゃないし、それこそ近世以前だったら言語理解の訓練を受けている人なんて少ないだろうからね。ここまで道しるべを用意してもらって、自分で気づく環境まであって、それでも辿り着かないのなら、たしかにセンスがないんだろうな。