今日のエッセイ-たろう

日本的美意識とプレゼンテーション〜何を語り、何を残すか 2025年9月4日

日本人は比較的プレゼンテーションが苦手らしい。「らしい」と表現したのは、ぼくはその認識が薄いからだ。得手不得手があって、もちろん苦手だという人もいるけれど、プレゼンが上手な人もたくさんいる。料理が上手な人もいれば、苦手な人もいる。そのくらいの感覚。まぁ、時々ビジネス系のウェブサイトで「日本人にグダグダなプレゼンが多い」という記事を目にするので、「そう見えるんだな」と思う程度のことだ。

なぜ“苦手”“下手”と言われるのか

ひとつには、シンプルにスキル不足というのが理由。案外知られていないけれど、プレゼンテーションも訓練して上手になるような“技能”なのだ。普段からおしゃべりが面白くて上手だとしても、それとこれとは別の話。

プレゼンは、「何を、どの順番で、どのように話すか」という“構成”が重要だ。近年流行りの“結論ファースト”だけが万能なわけじゃない。導入にエピソードトークを置くこともあれば、背景から始めるストーリーテリング、謎解きのように最初に問いを提示することもある。構成だけじゃなく、話し方も様々な工夫がある。淡々と喋ることもあれば、雑談のように軽やかに喋ることもある。イレギュラーだけど、聴衆以外に“聞き手役”を用意することだって工夫の一つだ。

そういえば、以前来訪した営業マンの衝撃的なプレゼンを思い出した。まず、プレゼンの資料が“ワードにみっちりの文章”だったのだ。さらっと目を通してみると、個人の感想や思いが繰り返し述べられている。しかも、ぼくが読んでいる目の前で、資料にない別のストーリーを熱演。
一周回って学びが深かったな。「資料と口頭は同じプレゼンに」…あたりまえか。

プレゼンというのは、「中身」と「話術」の組み合わせ。これを学ぶチャンスって、ほとんど無い気がするんだけど、どうなのだろう。ぼくの場合もほとんどが独学と実践だった。たまたま、営業とか販売の職についていたから、「主張」と「説得」が日常の仕事だった。その中で、いくつもの反省を繰り返しながら独自の工夫をしただけのこと。もし、日常生活のなかに「主張」「説得」が必要なシーンがあれば、その人はプレゼンの素養を自然に体得することもあるかもしれない。

日常にある小さなプレゼン

子どもから見て親というのは愛情を注いでくれる人であると同時に、とても理不尽な存在だ。

ぼくが子供の頃は、テレビは一家に一台というのが一般的。どの番組を見るかで兄弟で言い争っても、最終的には父が決定権を持っている。夕食のおかずは1種類。家族みんなが同じものを食べるわけだから、好き嫌いのわがままを言っても、最終的には母が決定権を持っている。これぞ“昭和の家庭”だ。だから、自分の意見を認めてもらおうと思ったら、親に対して「主張」と「説得」を試みるより仕方がなかった。

親に素直に従うか、それとも自分の意見を主張するか。主張しても、大抵の場合はやり込められるのだけれど、時々「納得」を得られることもあって、それはとても嬉しかった。もしかしたら、あの経験はプレゼンのトレーニングになっていたのだろうか。

トレーニングだと考えると、プレゼンテーションを受ける人の影響を受ける。この場合は親や家族だ。どのような場合に納得してもらえるのか。どんな質問をされるのか。どんな反論があるのか。繰り返されることで学んでいくのだから、親というのはなかなか大変な存在だ。親になった我が身を振り返って、背筋が伸びる思いだ。

日本の伝統文化に見る気質

伝統的な上下関係もプレゼンテーションに影響していると聞いたことがある。親、先生、先輩、上司など目上の人を敬うというのは、長い間日本で受け継がれてきた儒教的な思想だ。この影響で、「目上の人がなにを考えているか」を察することを良しとされてきた。だから、特に若いうちはプレゼンよりも前に“根回し”が重要で、プレゼンの場では“空気を読む”というハイレベルな交渉を求められることになる。

そういえば、いくつか思い当たる節がある。事前に根回しをしていなかったことで、会議中に叱られたのだ。その日は“議論すること”が主目的だったので提案したのだけれど、「会議とは報告し合う場だ。事前に根回しをしていないのは仕事をしていないのと一緒」と先輩は声を荒げた。正直なところ、これには完全同意できないでいる。前述のように、根回しをして決済をスムーズにする工夫をすることもあるけれど、“議論すること”が目的ならば話が違う。根回しによって事前に合意形成してしまったら、純粋な意見を潰すことになりかねない。

これは、ぼくの個人的な意見でしかないのだけど、プレゼンテーションには、それが有効な場面というのがあると思うんだ。

プレゼンテーションは一方通行

プレゼンテーションが終われば質疑があるし、場合によっては提案を土台にして議論へ移ることもある。だから完全な一方通行ではないのだけれど、少なくとも“プレゼンの最中は話し手だけが喋り続ける”ことになっている。日常会話のようにカット・インすることはない。

この“一方通行”という特性が、日本文化には少ないのではないかと思う。無いわけじゃない。たとえば、江戸幕府ならば老中や将軍に対して一定の主張を行うこともあっただろう。似たようなことは、江戸市中の商家でもあっただろうし、農村の経営でも行われただろう。基本的に、上意下達の社会だったからトップがプレゼンをすることはない。主張して説得などしなくても、トップの意見は決定事項になってしまうから。だから、同列または、下から上へというのが基本になる。

江戸時代をイメージすると、まるで別世界のように感じてしまうかもしれない。けれど、構造的には現代も全く変わらない。上司や同僚や客に「主張」して「説得」するのだ。
つまり、必要なシーンでは日本でもずっとプレゼンが行われていたと言えるのじゃないだろうか。

みんなで紡ぐという感性

連歌という遊びがある。短歌の上の句(発句)を最初の人が詠んだら、次の人が下の句を詠む。その次の人は下の句に合う上の句を詠み、また次の人は別の下の句を詠む。かなりハードルの高い文芸だが、ここに複数人で長大な物語を編むという形式が見られる。

今読んでいる文章は、ぼくひとりが紡ぐ言葉だけど、連歌の場合は別の人の意向を汲み取って次の人に渡す文章。つまり、一つの物語をみんなで作るという行為だ。

連歌というと高尚な文芸のようだけど、実はこの形式は日常会話の中にもある。普段のなにげない雑談は、相手の言葉を受け取って続きを話すものなのだ。試しに、友人や同僚にむかって外を見ながら「今日はまたなんだか・・・」と言ってみると良い。なんとなく雰囲気を悟って「暑いですねぇ」などと続きを言ってくれるだろう。言いかけたことを受け取って補ったり、相槌をうって話をつなげたりすること、連歌のように会話を共同作業で紡いでいく場面が多い。これに対して、英語の場合は、相手の話を補い合うというよりも「最後まで言い切ってから内容確認」が基本になる事が多い。だから、いつまでも続きを話さないでいると「今日は、何なの?」と聞かれるのが普通だ。

こんなステレオタイプな会話をすることは少ない。けれど、よく観察してみると、日常会話っていうのは実に連歌のように連なっていくことが多い。ほら「それで思い出したんだけど」とか「それでいくと」というセリフを聞くことがあるでしょう。まさに一般化された連歌であり、連想ゲームのような会話じゃないかな。

この“みんなで紡ぐ”行為には“ずらし”が含まれる。相手の意図を汲み取りながら、それをまた少し違った角度から話をするのだ。例えば、ある映画について、主人公の感情について感想を言ったとしよう。別の人は、それを汲み取りながら別の登場人物について語ったり、監督視点で語ったりする。
こういったとき「だから私が言いたいのはそうじゃなくて」とは言わない。「それも面白いね」というのが良いのだ。
みんなで紡ぐという行為は、みんなが同じものを共有している一体感を醸成するのと同時に、互いの違う感性を認め合うということでもある。

美はそれぞれの心のなかにある

“見渡せば花も紅葉もな刈りけり、苫の浦屋の秋の夕暮れ”という藤原定家の和歌は、侘び寂びを表現するものとして引用されることが多い。周りを見ても、特別に愛でようと思うものはなにもない。ただ、あたりまえの日常として浜辺の漁師小屋があるだけ。ちょっと肌寒くなった秋の夕暮れ時の情景を表している。

この歌には「コレ良いよね」という感情が一切描かれていない。なぁんにもない、ただの日常のワンシーン。この情景を思い描いて「寂しいな」と思ってもいいし「情緒があっていいな」と思っても良い。自分の思い出と重ねてもいいし、つまらないと思っても良い。大切なのは、この情景を思い浮かべたとき、「自分の心の中に現れた感情」が「それも良いね」と肯定されるということなのだ。

異なる文化圏ならば「それで、あなたはどう思ったの?」とか「何を示唆しているの」などと、感情や意味を問われるかもしれない。個の意見が重視されるからだ。
日本の伝統文化のなかで、それを明示しないのは、明示した瞬間に読者はそれに囚われるからだろう。自由な感情の動きを制限されてしまう。明示せずに、「きっと藤原定家はこんなかんじょうだったんだろうなぁ」と想像して、そこに自分の感情を重ねていく。これが「いいなぁ」ということなのだ。だから、あえて余白を残すことが日本の固有文化として大きな流れを作ることになったのである。

場面ごとの使い分け

「主張する」ことと「みんなで紡ぐ」ことは、状況によって使い分けられている。前述のように国や企業の経営の場面ではきちんと主張が行われてきたし、アートや文芸の場面では鑑賞者に委ねるという姿勢を取ってきた。
ぼくは、この使い分けこそが“日本らしさ”のひとつだと思っている。

さて、使い分けをするとなると、どこで線引をするかが気になり始める。話をわかりやすくするために、主張する場面を「ビジネス」、みんなで紡ぐ場面を「アート」と表現して話を進めよう。

例えば、絵画はどうだろうか。これはアートに分類していいだろう。じゃあ、広告ならばビジネスということになる。だけど、「こういうときは◯◯!よろしく!」というのはビジネスだけど、デザインはちょっと違う。今治タオルでは真っ白なタオルをずらりと並べた写真を広告に使ったけど、タオルを買ってねとは主張していない。その写真から鑑賞者が「良いなぁ」と感じることを“期待”したといった感覚がある。鑑賞者のための余白がそこにあるのだ。

モノづくりでは、「良いものを作ればきっと売れる」と信じられてきた。それはかつてのマーケットが域内限定に近い小さなものだったからだという理由もある。それとは別の理由として、職人にとってはアートなのかもしれないと思うのだ。

日本のモノづくりが、世界的に見ても異質だという言説は見聞きしたことがあるだろうし、薄々感じているかもしれない。実際のところ、どんなに些細なものでも“徹底的に作り込む”という、ある種のオタク気質は日本特有のクセといっていい。その職人の精神は細かな部分の造作にまで及ぶ。気にしなければ誰も気が付かないような細部のモノづくり。そこには、こんな声があるような気がする。
「分かる人だけがわかれば良い。」「分かる人はきっといるはず。」「こういうところに気がつくのが通ってもんだ。」「気がついたという喜びを奪っちゃいけない。」
お気付きの通り、アートなのだ。購入者の喜びを最大にするためには、語らずにいることが良い。自分で気づいてこその感動を、余白として残しておきたいのである。

現代では工業的モノづくりで「アート」を感じるのは難しい。なぜならビジネスとしてしっかり主張されるようになったからだ。どのサイトを見ても、ここがすごいポイントだと教えてくれる。まぁ、それでなくては通販などは成立しないのだからしょうがない。

アートとしての料理

食品は実用的なビジネスでもあるけれど、場合によってはアートでもある。ジャンルやシチュエーションによって、どちらの比重が高いかは異なるだろう。「◯%増量」「体脂肪減少に効果」など商品そのものを主張する場合もあれば、「夏はそうめん」「節分には恵方巻」など文脈を主張する場合もある。一方で、一部のホテルや料亭では、ほとんど主張されない場合もある。旅館の予約サイトを見ると「旬の会席」としか説明のない宿もちらほら。当店も、価格を決めてもらうだけで献立などは開示していない。

伝統的な料亭では、仲居は料理の説明をあえて最小限に留める。理由はいたってシンプル。“余白を奪わないため”である。
料理を一口食べた客は、「これはなんだろう?」と素材や季節へと心を伸ばしていく。そんな時間を“言葉”で上書きしない。言葉にならない感覚すらも味わうこと。それもまた料亭のサービスの一部なのだ。
そして、もちろん何を感じるかは食べる人の自由である。
これが、日本の料理文化の流れのひとつであり、特に高級料理はその傾向が強い。茶懐石や会席料理は、これを体現した料理のテンプレートと言ってもいいだろう。

プレゼンテーションが重要な食文化
プレゼンテーションは、ビジョンの共有が大前提となっている。料理を通じて、シェフのビジョンを的確に客に伝えることが至上とされる。「秋の麦畑が美しい」というテーマを設定したら、それ以外のビジョンが伝わるのではだめなのだ。そこに、鑑賞者の主観が入り込む余地はない。

プレゼン資料と同じように、ぼんやりとした表現は伝わりづらい。だから、しっかりとしたコアのある食べ応えと、印象に残るインパクトが用いられるのだ。淡い味わいは「なんだかぼんやりしている」と言われて敬遠される傾向にある。

同じ理由で、物理的な余白を作らない傾向にあるし、左右対称の造形が好まれる。余白は、鑑賞者の想像の余地を生むし、非対称の造形はその不安定さから安定を求めて感情が動く原因になるからだ。

お店やシチュエーションによっては、シェフによるプレゼンテーションが行われることもある。料理を食べる前に、言葉で世界観を語るのだ。そして、ベストレストランなどの賞レースでは、料理と言葉のプレゼンテーション能力も評価のうちだと聞いたことがある。

食の多文化共生

「食と美意識」について、おおざっぱに2つのパターンを対比した。実際は他にも様々な思想があるし、国や文化に固定されるものではない。ざっくりと“日本的”、“西欧的”と表現することは出来ると思うが、日本とフランスのように料理文化の交流によって互いに影響し合っているので、一概には言えない。

どちらが良いとか悪いと言った話ではない。それぞれに良いと思うのだ。ただ、現代はかなり偏っているなと思っている。専門誌では「人気レストランに学ぶプレゼンテーション」「ビジョンを伝えるレストラン」などの記事が並び、それをハイレベルで具現化したレストランが評価される。一方で、こうした賞レースに、日本の伝統的な名店が名を連ねることは少ない。当然だが、評価軸が全く違うのだ。もし、日本的な“余白の美”を評価の中心に据えたら、ベストレストランの上位ランクにあるレストランの多くは評価が変わることになる。なぜなら、言葉であれ料理であれ、余白を持たない強いメッセージは「下」とされるからだ。

繰り返すが、対抗したいとか批判したいというのではない。どちらも良いと思っている。ぼくだって、主張がはっきりした料理を構成することだってあるし、場合によっては数分程度のプレゼンを行うことだってある。それはそれで楽しいし豊かだと思う。

心配しているのは、評価軸が一つになること。別の楽しみや豊かさがあるのに、もったいないじゃない。スプリントを歌唱力で採点しないし、合唱をタイムで計ることもない。軸が違えば輝くものも違うということだ。

今日も読んでいただきありがとうございます。

日本文化はハイコンテクストだからわかりにくい。って言われることがあるよね。確かにそうだと思うこともあるんだけど、わからなくてもいいっていうのもあると思うんだ。だって、何を感じるかはご自由にどうぞって言っているんだから。ただ、文脈を知っていると感じることの幅が広がるってだけ。優しいんだか厳しいんだか、よくわからないね。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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