改めて言うまでもないが、年々夏の気温は高くなっている。数字で見せられなくても、体がそう感じているのだ。はじめて気温上昇の変化をグラフで見たときには、衝撃を受けたものだが、今となっては「そりゃ、そうだろうな」と妙に納得してしまう。最近ニュースで知ったのだけれど、パリの気温が35度を超えているらしい。パリは北海道よりもさらに緯度が高いのだ。それほどまでに地球温暖化が進んだということなのか、と、また新たな衝撃を受けた。
ぼくが小学生の頃までは、このままだと地球が寒冷化するのではないかと危惧されていた。どうやら、長い時間軸で気候変動の歴史を考えると、そういうタイミングだったらしい。もし、これまでの歴史通りのサイクルならば寒冷化したはず。それなのに、温暖化した。どうやら、産業革命以降の温室効果ガスが影響しているのではないかという話もあるらしい。
温暖化を懸念する声は、20世紀からあがっていた。あがっていたのだけれど、本格的にぼくらが心配するようになったのは近年のことだ。これは本当にマズイかもしれない。そういう感覚を、感覚として認識するのには時間がかかったということなのだろう。もしかしたら、ホモ・サピエンスという生き物は、理屈だけではなかなか行動に移すことが出来なくて、「感じる」という曖昧なものが行動のきっかけになるのかもしれない。
歴史上を紐解くと、森が壊されて文明が衰退した例はゴロゴロしている。。バビロニア、クレタ島のミノア文明という古代文明。かつて緑にあふれていた長江以南は水墨画に描かれるような山々へと変わった。東大寺の建設で大和の山ははげ山になったし、江戸大火の復興やその後の産業勃興で、近隣の山々から木は消え去った。ロンドンが拡大すると、森のドーナツ化現象が起きて、食料生産地が遠ざかったし、労働者の食生活は苦しいものになった。
こうしてみると、ぼくらはびっくりするくらい、なんども同じことを繰り返してきたのかもしれない。徐々にマシになってきているとはいえ、何度も何度も同じことを繰り返してきたのは、学ばなかったからではなく、感じられるようになるまで本格的に行動に移すのが難しいのかもしれない。
ある都市を想像してみよう。森の木を伐り、燃料や建材としてガンガン使っていく。畑も広がり、産業も発展し、木材貿易なんかも発達するかもしれない。どんどん豊かになって、人も増えていく。そして気がつけば、森は減っていて、このままでは増えた人口を支えることが出来ないと焦りだす。貯金を切り崩して豪遊する生活は、人脈も広がるし所有物も増えていく。とても楽しいし豊かさを感じるだろう。でも、残高が少なくなったころに通帳を見て「ヤバい」と青ざめる。
前期、中期、後期の流れを掘り下げて想像してみると、こんな感じだろうか。
前期後半から中期にかけて、産業が盛り上がり都市生活の最盛期を迎える。
中期から後期にかけて、効率化のために分業体制が確立して、産業が強固に仕組み化されていく。
後期初頭になると、有識者などが資源の枯渇に警鐘を鳴らし始める。
後期半ばから後半になって、民衆が「ヤバい」と焦り始め、みんなが具体的に行動を始める。
これは、ぼくが勝手に作り出した妄想でしか無いので、明確な根拠があるわけじゃない。ただ、なんとなく「そういう流れがあるのかな」と思っている。仮に、このモデルが正しかったら、ぼくらが慌て始めるのはたいてい「手遅れギリギリ」になってから、ということになりそうだ。夏休みの終盤に、焦って宿題に手を付ける、あの感じ。なんだか似ているような気がする。見積もりが甘いのだ。
そういう意味では、早めに気づいた人たちは周りの人たち「感覚」を通じて伝えるのが良策のように思える。かつて、石原都知事が東京の排気ガス規制を訴えた時に、ボトルに入ったススを振ってみせたことがあった。全員ではないにしろ、可視化されたパフォーマンスで危機感を覚えた人もいたと思う。もちろん、科学的なエビデンスのないものや陰謀論などを振りかざすのは論外。ちゃんとした検証のもとに、必要ならばときにはパフォーマンスで「感覚」を醸成することも有効なのだろう。少しでも行動のタイミングを早めるために、だ。じゃないと、モデル都市で言うところの中期に生まれた産業のロジックに絡め取られて、次の手を打つのが遅れてしまう。
今日も読んでいただきありがとうございます。何をすれば確実に良くなるのか。なんてことは、究極的にはわからないんだと思う。世界ってそんなに単純じゃないし、だいたいのことは思った通りにはならなくて、成功していることだって運の要素が大きい。だったら、何度もトライアンドエラーを繰り返すしかないと思うんだよね。ギリギリになる前にトライし始めたほうがたくさん試せてお得だよ、きっと。