近所のスーパーマーケットに行くと、いろんなビールが並んでいる。大手メーカーのものもあれば、国内のクラフトビール、海外のものもある。ビール好きにとっては、嬉しい時代だ。
それぞれが、我こそが一番美味しいと主張しているのかもしれない。それは、それぞれのメーカーのビールに対する美学を体現しているようで、百花繚乱の様相を呈した売り場は眺めているだけでも楽しい。もちろん、飲み比べればもっと楽しい。
大手食品メーカーの商品は、時として低く見られることがある。一つ一つ丁寧に作られた手作りのものと比べると、大量生産の商品は雑なものに感じるのだ。場合によっては、商品のクオリティよりも利益優先だと言われることもある。確かにそういうこともあるかもしれない。だけど、それが全てなわけじゃないのは、棚に並んだビールを飲めばよくわかるはずだ。
企業規模が大きくなるとき、避けては通れなかった宿命があると言われる。それは、商品やサービスの均質化だ。
商品を物理的に広い世界へと届けようと思ったら、クオリティ管理がリスクになる。
まず、生産規模を拡大するということは、同じものを大量に作るということだ。それが、世の中に受け入れられて大量に市場に出回ることになれば、誰も彼もが同じものを使うことになる。これはまぁ、当たり前の現象。食品に限った話ではない。
他のケースも有る。例えば飲食店がチェーン展開したときに、個別の店舗に品質管理を任せていると、中にはクオリティを下げてでも利幅を得ることを優先するものがあらわれる。それが1店舗だけだったとしても、ブランドイメージの毀損につながる。それは、経営者としては避けたいところだ。全てが直営店で。全てを管理することができればよいのだけれど、特にフランチャイズ展開では難しい。
規模が小さいのと大きいのとでは、いろいろとやり方が違う。煮物を作るときでも、大きな鍋で大量に作ると火加減が大雑把になる。加熱する対象が大きいのだから、どうしても時間がかかるし、味もムラができやすい。だから、大鍋で作るときなりの工夫が必要だ。
大規模メーカーは、やっぱり凄い。ビールもそうだけど、醤油とか味噌とかも、同じパッケージの商品を買えばだいたい同じ味。品質の差を感じたことがない。季節によっては微生物の活動だって変わるだろうに、それすらもコントロール出来ている。これほどまでに品質が安定しているから、レシピさえ同じなら同じような味で料理を再現することが出来るわけだ。それに、常に大量に生産することが出来る体制ということは、世の中に食料を安定して供給することが出来るということだ。
江戸時代、天明の飢饉をきっかけにして社倉や村倉という、共同体ごとに米を備蓄する仕組みがあった。藩のバックアップで運営された会所があった。これらは、飢饉対策だったり生産物の品質管理や物流の集約のためだったりするのだけど、結果として需給の調整弁として機能していた側面がある。一定量以上の商品を取り扱うということは、そういうことになるのだろう。
ただ、大企業がその商品の取引を全て握ってしまうと、これは問題が生じる。生産量、つまり市場への供給量も、その価格も、一握りの企業に左右されてしまうことになる。嗜好品ならまだしも、主要穀物だと状況は深刻だ。
食べ物の歴史を人の生活との関わりという視点で見ていくと、実は主食だけが大インパクトを与えるわけではないということがわかる。しばらく前に、日本におけるこんにゃくの歴史を紐解いてみたのだけれど、どういうわけか「みんなが欲しがる」という状況が続いていた。シンプルに「生きるため」という目的だけを考えたら直接影響があるとも思えない食材なのだけれど、地域経済を大きく変えるだけの影響がある。
企業や地域の経済発展のためには、競合が弱いほうが良い。だけど、競合がいたほうが市場が盛り上がるのも事実。地域ごとの食文化が多様になって、そのほうが僕には楽しい世界のように思える。食料安全保障についても、分散化していたほうがリスクは低い。
少し大仰な話になってしまった。ただ、ここで言いたいのは、身近にいる小規模な農家が、地域の人々と食を結びつけてくれているということだ。食料供給ポイントを分散する機能を持っていて、そのおかげで食料不足にならないとか、地域性を担保するとか、そういうことに繋がっているんだと思う。効率化の観点から見れば、あまり良くないことなのかもしれないけれど、社会の機能として有用である。といえるのじゃないだろうか。
今日も読んでいただきありがとうございます。いくつもの豊かな点がある。そういう小さな輝きは、あまり注目されることはないのだけれど、実は僕らの生活は小さな輝きによって支えられているんだよね。地域社会のエコシステムを見直して、今よりもう少しだけ小さな輝きが報われるように出来ると良いよね。