ぼくは落語が好きでね。誰それの話が良いとか、そういうのはあんまりよく覚えていない。まぁ、同じ話を聞いても面白い人とそうでもない人がいるよなってことくらいはわかるから、なんとなく好みの噺家さんがいるというくらい。どの演目が好きかと聞かれても、そうたくさんの演目を知っているわけでもない。聞いたことがあっても演目名を覚えていなかったりするので、話の筋を聞けば「あぁ、それね」となるかもしれないという程度。落語学にはそれほど興味がないのだ。ただただ、落語という演芸を楽しむ自分がいて、そこで描かれる世界観が好きというだけのこと。
落語には、定番の登場人物がいる。ご隠居とかお寺の住職といえば、まとめ役だったり知恵のある人物。それから熊さん八っつぁんというのは、腕っぷしの強い職人かな。長屋の大家さんは、だいたいケチで嫌な役回りだし、若旦那と言えばあまり働かないボンボンだ。で、与太郎と言えば、そうバカだ。
この与太郎という登場人物が、ホントに馬鹿なんだけど、ぼくが好きな落語の世界には欠かせないのだ。なんというか、バカさゆえに話が展開していくのだし、バカなんだけど座が持つのだ。
例えば、長屋のみんなで花見でもしようじゃないかって話になる。で、何を用意して誰を連れて行こうかって相談する。熊さんには家から沢庵を持ってきてくれ、八っつぁんは酒の支度だ、とまぁ役割とセットで人選が行われるのだが、この時何も役に立たないはずの与太郎は必ず呼ばれる。
「そうだ、与太郎にも声をかけておくれ。いやね。あいつに何かを用意させろっていう話じゃないんだ。そんなことをさせようものなら、どんなヘマをやらかすかわかったもんじゃない。そうじゃあないんだ。与太郎はいてくれりゃあそれで良いんだよ。あいつがいると座が持つんだ。」
チームに対する具体的な貢献度を、わかりやすい物差しで測ろうとすると、どうにも測定できない人物がいる。落語の世界では極端に描かれているからわかりやすいのだけれど、たぶん現実世界にもいるはず。なんとなく、そこにいるだけでチームの業績が上がるという人。大して役に立っていないように見えて、実は欠かせない。
書き言葉であるべきエッセイなのだけれど、ぼくは時々「まぁ」という表現を差し込む。まぁ、自然に出てきてしまうわけだ。実は、この「まぁ」というのが与太郎のようなポジションなのではないかと思う。特に意味があるわけじゃないし、書かなくても文意は伝わる。なのだけれど、ちょっと雰囲気が違うというか、座の空気感が良くなるような気がするのだ。
「仕方がないね」「まぁ、仕方がないね」というのとでは、同じことを言っているのになんとなく違う。「まぁ、良いか」「まぁ、そろそろ」「まぁ、そういうことで」。なんだか意味なく「まぁ」がついているのだけれど、なんだか違う。
ぼくらが学校で習う国語は「標準語」。よく関西の人に「あれは標準語じゃなくて東京弁だ。東京弁が標準なんてありえない」と言われることが有るのだけれど、ある意味間違っていてある意味正しい。東京弁と標準語は全くの別物で、明治時代に人工的に作られたのが標準語なのだ。東京弁はもっと別のもので、たぶんうまく聞き取れない人も多いんじゃないかな。いわゆる江戸っ子の言葉がそれだ。
標準語が作られた理由は、正確な情報伝達のため。それまで律令国をベースにバラバラだったのが、日本という統一国家が出来て、統治者は地方出身者同士。薩摩、長州、土佐の言葉で会議していても、互いに何を言っているかわからない。法律を作っても、それを守るべき国民が理解できない。これでは困るからと、正確性を持たせるために曖昧さと情緒を削り落として作られたのが「標準語」と呼ばれる言葉だ。
だからこそ、「まぁ」みたいな「曖昧さと情緒」を差し込みたくなるんだと思う。どの時代にも若者だけが使う言葉があったり、業界だけの遊び言葉があったりするのは、失った情緒を取り戻そうとしているようにも見えるのだ。
今日も読んでいただきありがとうございます。エッセイは書き言葉だし、たべものラジオでもなるべくわかりやすくクリアな発話を心がけているんだけどね。でも、同時に曖昧さとか情緒も無くさないようにしたいんだ。食という人の営みには、曖昧さとか情緒が重要なポイントになると思うからね。