たまたま新聞を開いたら「カメムシを食べた」という文字が目に入った。気になって読んでみると、大量発生したカメムシを「やられたらやり返す」の精神で食べてみたのだという。直感的にギョッとしたのだけれど、フライパンで煎ると独特の臭さなどはなく美味しかったと記されていた。
もともと虫が苦手なぼくに、虫を口にいれるなんてできるだろうか。もしかしたら、ぼくよりも虫が苦手で、この文章を読むだけでも嫌な気持ちになった人もいるかも知れない。
投稿記事の中でも、「昔はいろんな昆虫を食べていたけれど、よほどの好奇心や覚悟がないと食べないだろう」と感想を述べられていた。虫は食べないという観念が固着しているのだ。
以前、お客様の中にどうしてもカニが食べられないという方がいらっしゃった。甲殻類アレルギーというわけではなく、とにかくカニの見た目が駄目なのだそうだ。なにかのきっかけで、どうしても虫にしか見えなくなってしまって、それ以来食べられなくなったという。言われてみれば、そんな気もする。
ある人類学者が語っていたコオロギ食の話を思い出す。フィールドワークでアフリカのある部族社会に滞在していたとき、コオロギの素揚げを食べさせてもらったのだそうだ。子どもたちのおやつになったり、お酒を飲むときのツマミになったりして、現地では一般的かつ人気の食べ方。食べてみると、日本の居酒屋で提供される芝海老の素揚げみたいな味で、美味しかったという。
時が経って再びその集落を訪れたとき、お土産に日本の芝海老を持参して素揚げを振る舞ったそうだ。鍋に放り込んだ瞬間、多くの人たちが悲鳴を上げながら蜘蛛の子を散らすように逃げたという。
日本社会とは全く逆の現象である。
なにを「当たり前」だと認識しているか。それだけのことだ。たとえば「食肉用に犬を飼っていて、時々それを締めて食べる」という人は、日本にはいないのかもしれない。犬は人類と最も長く共生してきた動物で友達のような存在だと思っている。それはそれで一側面なのだが、江戸時代までは食用として飼育していたこともまた事実。もともとそういう関係性なのだ。牧場で愛情をかけて育てられたウシやヒツジは、愛玩動物のような接し方をされることもあるらしいのだけれど、それらの家畜はいずれ食用となることを前提としている。それと似たような存在である。犬が愛玩専用のように扱われるようになったのは、近代以降のことだとされている
こうした例は枚挙にいとまがない。梅干しだってそうだし、寿司の変化だってそうだ。どんぐりって食べられるの?という人だって少なくないし、みりんは調味料だと思い込んでいる人もいる。
結局、ぼくらは「思い込み」で「食べないもの」という判断をしている。もちろんそれだけじゃないだろうけれど、そのような部分もある。
では、自分の中にある「思い込み」を上書きすることはできるのだろうか。カメムシを見て「おいしそうだなぁ」と思えるようになるのだろうか。少なくとも、「うへぇ」と嫌な気持ちを抱かないくらいにはなるだろうか。
随分前のことだけれど、2週間ほど博多のホテルに滞在していたことがある。たまたま近所にラーメン屋さんがあって、その前を歩いて通るのだけれど、これがとにかく臭かった。ぼくの知っていた飲食店は、たいてい店の外に美味しそうな匂いを漂わせていて、たいしてお腹が減っていなくても吸い込まれそうになるものだ。そのときはトンデモナイ臭さに驚いたのだが、もっと驚いたことにいつ通りかかっても満席に近いのだ。こんな臭いものを食べる奇特な人がいるのかと思いつつも、時には行列ができるのだから一度くらいは試してみようと意を決して店内に入ってみた。やっぱり臭い。ところが、いざ口に入れてみるとこれがとても美味しくて衝撃を受けたものだ。さらに翌日、ぼくはぼく自身に驚くことになる。店の前を通りかかったときには、全く臭いとは思わず、むしろ美味しそうな匂いだと感じていたのだ。
人の認知など、所詮そんなものなのだ。
苦いと思っていたビールだったが、風呂上がりに飲んだら美味しく感じるきっかけになった。大人ぶってワサビを食べていたら、なくてはならないものになった。などという経験を持っている人もいるだろう。
日本人の多くは、焼き魚の焼ける匂いを好ましく思うらしくて、状態が悪いのでない限りは生臭いと感じることは少ない。生の魚である刺し身ですら、生臭さに抵抗感が少ない。これは、ただ慣れているだけだ。それが当たり前の社会で生まれ育ったのだ。だから、そうではない社会しか知らない人にとっては、魚の匂いが鼻についてどうしようもないのだという。
生まれ育った環境によって、食味の認知に影響を与える。これは、物理法則のような絶対性を持っているわけではないけれど、とても再現性が高いと思う。
ならば、小学生くらいのときに色々と食べてみるのはどうだろう。それぞれに好みはあるだろうけれど、いろんな食材が当たり前のように提供されている「環境」を整える。
少し前に学校給食で提供されたコオロギ食が話題になった。大人はいろんなことを言ったけれど、食べた本人たちは大人たちが騒ぎ立てるほどに問題を感じていない。それぞれに美味しかっただとか、なんとも思っていないとか、嫌だとか個人の感想を述べたに過ぎない。このニュースに触れたとき、既視感があった。明治時代の肉食文化の需要である。あの時代も似たようなことがあったらしい。
文化は伝承と変遷の2つの側面がある。日本は、食文化においては比較的変化に順応しやすいように思う。それは、食文化史を勉強してみてそう思うのだ。一度受け入れる流れができてしまえば、10年そこそこで順応してしまう。それどころか、新たなバリエーションを生み出してしまう。戦後のキッチンカーやパン食給食が絶大な効果を発揮した通りである。
他人の食の嗜好をどうこうするのはナンセンスだとは思う。ただ、好き嫌いというものは自分の中から発しているものだけでは決まらないものでもある。だから、人生のうち何年間かは「好き嫌いを言わずに色々と食べてみる」という期間があっても良いのかもしれない。それこそ、小学生くらいの柔軟な世代で体験するのは、食の多様性を受容しやすくなるのではないだろうか。そんな仮説に思い至る。
この先、タンパク質の獲得が困難になる可能性があると言われている。そのなかで昆虫は、生産コストがとても低い上に栄養があるということで注目を浴びている。コオロギもカメムシも、他の文化圏では養殖が産業化されているのだ。時代の変化の中で、ぼくらの社会は不毛な感情論をまた繰り返すのだろうか。それとも、柔軟に取り入れていくことができるのだろうか。
今日も読んでいただきありがとうございます。以前韓国に行ったときに「ポンテギ」という食べ物に出会ったんだ。訪れた店では当たり前のようにテーブルに乗っていて、伝統的な料理なのだそうだ。ポンテギは蚕の蛹を蒸して味付けしたもの。だから、見た目は虫そのものなんだよね。その時ぼくはひどい二日酔いだったから、挑戦する気にもならなくてそのまま食べる機会を失ってしまったんだ。だって、虫が苦手なんだもの。だけど、あのとき食べておけばよかったなぁって、今になって思うんだよ。