今日のエッセイ-たろう

静岡って東海?関東?長すぎ問題から考える境界線。 2025年7月14日

東海道新幹線で東京から西へ向かうと、多くの人が感じることがあるらしい。「静岡県ってなげ〜」だ。静岡県民は、東京から新幹線に乗っても静岡県内のどこかで降りてしまうからあまり気にしていないのだけれど、実際のところ長く感じるのも無理はない。昔の宿場町の数は、静岡県内だけで22宿ある。単一の県では最多で、次に多いのが神奈川県と愛知県で、それぞれ9宿。ぶっちぎりのナンバーワンだ。

静岡県は、どういうわけか東海地区にカウントされないことがある。個人的には、完全に東海地方だと思っているし、何なら東海地方の代表格だと思っているフシもある。だって、東海道で一番宿駅が多いんだもの。電車といえば東海道線だし。東海という言葉が当たり前に存在する地域で育ったのが理由かもしれないけど。

歴史を紐解くと、明確に静岡県が関東とされていた時代がある。平安時代は鈴鹿よりも東側は関東だし、鎌倉時代は安倍川あたりが境目になっていたらしい。そもそも、関東という言葉は関所の東側という意味だから、鈴鹿関や逢坂の関を境目とするのが正しいことになる。現代の感覚とはだいぶ違う。

同じ時代の領国を見てみると、当時の地域区分がわかる。これによると、茨城県から三重県までが東海道ということになっている。古代の「関東」が鈴鹿よりも東側だということだから、東海道に分類される領国は全部関東ということになる。東海道どころか、東山道も同じ扱いのようだから、岐阜や長野山梨あたりも関東である。

こうして並べてみると、どうやら「分類」と「呼称」とは区別して考えるのが良さそうに思える。東海道という地区名は分類だし、関東というのは「あっちのほう」というくらいの感覚。「あっちのほう」と言ったのは、その時代における異国の感覚に近い。明確に異国だとは思っていないし、東国からも租庸調が届けられているから勢力圏であることは間違いない。ただ「あっちのほう」は、ちょっと違う世界だよね。そのくらいの、どこかぼんやりした感覚があったのだろう。

平安時代の征夷大将軍・坂上田村麻呂が東征したとき、掛川市にある事任八幡宮に参拝した記録がある。というか、桓武天皇の勅命で現在の地に社を移したのもこの人だ。このあたりの「日坂峠」が、当時の大和朝廷の境界だったらしい。つまり、ここから先の旅の安全を祈願し、無事に大和へ戻ってこられたことを感謝を捧げる場所だったのだ。この境界感覚が、東へと移動していくにあたって、現代で言うところの「関東」という概念が生まれ、それと区別する形で「東海」という区分も出来ていったのだろう。

鎌倉時代になると、遠江が境目だったり、安倍川が境目だったりする。鎌倉幕府の公式歴史書「吾妻鏡」だと、関東という言葉を東日本という意味で使っているから、大体そのあたりということになるのだろう。ともかく、権力の中枢が東日本に移ったというのは大きかった。これは、日本という一体の文化圏がそれ以前よりも広がった。権力の中心が東にも生まれたことで、それまで見えにくかった地域にも光が当たり、存在感を持つようになった。

江戸時代に入ると、江戸防衛のための関所が箱根や碓氷に置かれるようになる。この関所を基準とした東側を関東と呼ぶようになる。ざっくり現代の地名にすると、東京、神奈川、千葉、埼玉、群馬、栃木、茨城である。これが現代に続く関東であり、これよりも西側の海沿いは東海に分類されるのが自然だろう。

ところが、静岡県が関東だと認識されることも少なからずある。例えば、商工会議所連合会。基本的に各地域の独立した団体なのだけれど、広域連携を行っていて、静岡県は「関東ブロック」に所属している。同じように観光協会も関東ブロックだ。これはなぜだろうか。

おそらく、徳川政権の影響が強く残っているからだろう。静岡市は徳川家康の隠居所であったし、大政奉還後に徳川慶喜が隠遁したのも静岡市。幕閣として活躍した田沼家は和歌山の出身ではあるけれど、所領は藤枝市。他にも幕府直参が所領を持つことが多く、駿河や遠江は江戸幕府の影響を強く受けた地域だったのだ。

政治的には江戸と密接につながっていた静岡県。でも、文化的にはどうだろう。もちろん、政治と文化は重なる部分もあるけれど、異なる部分も大きい。自然環境も違えば、地理的環境も大きく異なる。関東ブロックの反対側の端にあるのは常陸だけど、違いが大きく観光政策が共有しづらいのである。その点、東海ブロックの反対の端っこである伊勢のほうが共通点が多く、歴史的にも相互に影響しあってきた経緯もあって共感しやすい。東海道や廻船で直接の交流があったし、感覚的にも近いのだ。

こうしてみると、「政治的な区分」と「文化的な区分」で、境界の感覚が変わることがあるのかもしれない。むしろ、文化的には大井川あたりで区切ったほうがしっくりくるような気もする。駿河は今でも関東っぽい雰囲気があるし、遠江の人たちは西のほうに親しみを感じやすいらしいから。

今日も読んでいただきありがとうございます。やっぱり、個人的には「東海」のほうがしっくり来るかな。お隣の三河なんて、祭りとか食文化とか似ているし。三河と遠江で合同イベントやるかね。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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