今日のエッセイ-たろう

Aの原因はCだけど、BがあるのもCのおかげ。 2024年9月10日

先日、「一度壊されたものはなかなか戻らない」という事象に対して、「壊さない」という姿勢も大切なのではないかということを書いた。その続編というか、もう少し考えてみたいと思うんだ。

壊さない。というのもなかなか難しくて、何でもかんでも今まで通りだと、何も革新的なことが出来なくなってしまう。細胞は自らを破壊するシステムを持っているからこそ、新しい細胞が生まれるという仕組みがあるように、新陳代謝が生命そのものを維持している。これをすべての事象のメタファーとするのは乱暴だけれど、確かにそういう面もあると思う。

よく目にするのが、良かれと思ってやったことだけど、その副作用が強すぎるという事例。

すごく矮小な例を挙げると、こんな感じ。あるダメ社員がいたとしてさ。その人のせいで仕事の進捗がはかどらなかったり、余計なコストが発生していると思われているとするじゃない。で、その人が退職するなり移動するなりしてチームからいなくなると、チームの連携がとたんに上手く行かなくなったり、他部署との連携が悪くなったりする。

抽象化すると「ある問題を解決しようとして、その根源となる事象なり物を排除する。すると、排除したものは別の良いことを支えてもいたので、良いことも消滅した。」ということになる。

こんなの、なかなか認知が出来ないだろうとは思う。時間軸がとても短くて、先の例のように観察すれば見つけられそうな事例ならわかるかもしれない。だけど、その影響が10年以上の時が経ってからわかるということもある。それこそ、100年後になって「あの時あんなことをしなければ」と言われるかもしれない。

いろんな地方の小都市で、まちづくりなどの話をしていると「前の世代が壊した商店街」というキーワードに触れることがある。自動車が通りやすいように道を広げて、各商店をひとつなぎの建物に建て替えた。とか、まぁいろんなパターンがある。で、現代になってその商店街に人を呼び戻そうとした時、「自動車優先の商店街」は人の歩行が制限されていて回遊しづらい環境であることに気がつくのだ。まして、子供連れの場合は怖くて歩けないという声も多い。

前の世代を責めるのは簡単だ。だけど、その時点のその社会環境では、それが最適解だったのだろうという。少なくとも、商店街を変革させた頃には恩恵を受けた人たちがいただろうから。

百年単位という長い時間ではなくても、わずか数十年のことすら認知できないのが僕たち人間という生き物なのだろう。ぼくが良かれと思ってやっていることも、しばらくしたら酷いことをしたと言われるかもしれない。

認知が難しいとしたら、出来ることはひとつ。「創造的破壊も、革新的保守も、どちらも未来において良い影響を与えることも有れば、悪い影響を与えることもある」という可能性を自覚することじゃないかな。

WIREDが行っている事業に「Si-Fiプロトタイピング」というのがある。簡単に言えば、未来の世界を可能性の高いSF小説にまとめるというものだ。大切なのは、妄想した未来世界の中で生きている人の生活を、できる限りリアルに想像すること。すると、見えづらかった課題や効果が突如として現れるということがあるのだ。一度、体験会に参加したことがあるのだけれど、そこで気た言葉がぼくにとって大切なものになっている。それは「良き祖先」「未来予測ではなく、未来の可能性の拡張」だった。

手法の話をしたいわけじゃない。姿勢として、「ぼくらが辿る未来はいくつにも分岐していて複数形だっていうことと、現代の選択によってその可能性は増えたり減ったりするということ」があるんだよって「思っておく」ことが大切なんじゃないかなって。そう思うんだ。で、なるべくなら子孫から「良き祖先」と思われるような選択を考えようじゃないかって、そういうことなんだろうと思う。

今日も読んでいただきありがとうございます。人間が想像できることは、人間が必ず実現できるって言ったの誰だっけ。忘れちゃった。ちょっとオーバーだな、と思ってはいるんだけど、そのくらいの姿勢でいるというのが良いのかな。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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