「っせー!」という声が店内に響き渡る。もちろん、料亭ではない。たまに訪れるラーメン屋さんでのことだ。店長や他のスタッフさんは、「いらっしゃいませ!」と明るい表情で迎えてくれるのだけれど、ひとりだけ独特のイントネーションで、独特の省略した言葉を発している。とてもおもしろい。
本音を言ってしまえば、そんなに大声を出さなくてもいいんじゃないかとは思う。というのも、彼が大声を発するたびに、近くのカウンター席にいる人が顔をしかめているのが目に入るからだ。「ぎょーてぇい、っちょぁーいっ!」「んぁぃよっ!」というのは、「餃(子)定(食)一丁」、「はいよ」という意味だろう。
ラーメン屋に限った話じゃなく、居酒屋でも家電量販店でも聞くことが出来る、あの独特のイントネーションや、高校野球の応援団かと思うような声量での掛け声。あれは、いったいどこからやってきたものだろう。いや、なんとなくわからないでもない。というのは、ぼく自身も若い頃に家電量販店で働いていた経験があって、ちょっとした悪ふざけで変な掛け声を発するのが一種の流行のようになっていたのを知っているからだ。あの心理はどこからやってくるのだろうな。
店内の活気を出したい。という気持ちもわかる。実際、一部の販売店などでは「活気だし」のための「隠語」が存在する。店内放送などで指示が出ると、どんなに店内のお客様が少なくても、お客様より圧倒的に人数の多い店員が一斉に「いらっしゃいませーっ!」と声を出し始めるのだ。ぼくも声を出さなければいけない立場にあったのだけれど、なんとも奇妙なものだと思う。接客中などは、「すみません。変な文化で」などと苦笑いをしながらお客様に謝ったものだ。
声の大きさや騒がしさ。それは、実は活気とは無縁である。ある程度張りのある声を出そうとすると、それなりに声量は大きくなるけれど、張り上げるほどの声量は必要がない。どちらかというと、明るく歯切れのよい発声のほうが影響するし、ちゃんとお客様の顔を見て「ようこそいらっしゃいました」という気持ちを伝えることのほうが全体の雰囲気を活気づける。
作為的なものは、違和感を覚える。というのは、あまり知られていない法則である。明らかに作為的な満面の笑みは、どういうわけか不自然な感じがしてしまうし、場合によってはちょっと気持ち悪いと感じてしまうこともある。
接客だけじゃなくて、例えばファッションコーディネートでも似たようなところがあると思っている。女性のファッションについては良くわからないのだけれど、必要性のないシチュエーションで装飾を用いるというのは、どうも「やり過ぎ感」というのが邪魔をするらしい。トレーニングジムにスーツで訪れるのは、それが仕事帰りなら違和感がない。けれども、まるでデートに出かけるようなおしゃれ着で登場すれば、違和感がある。それがオシャレだったとしても、そう受け取られない場面というのがある。エポレットというシャツやトレンチコートの肩についているベルトは、もともとミリタリーに由来する意匠。日常生活では使うことはないけれど、ミリタリーの文脈では使い道があるものなのだ。パリッと糊のきいたシャツをスラックスにタックインするのは、スーツの着こなしとしては王道である。それが似合わない着こなしもあるし、逆にスーツを着るときにシャツの裾を出すのも、スラックスを腰履きするのも違和感がある。
料理の盛り付けにしても似たようなところがあるんじゃないかと思っている。きちっと角を揃えて、美しく盛り付けるのもひとつの美学ではある。なのだけれど、食材そのものがもつ柔らかな線に従って、多少乱れていても自然にまかせるという美学もある。前者は以前のぼくであり、後者は今のぼくの感覚。作り込みするぎるのは、「やり過ぎ感」が出てしまようでちょっと居心地が悪いのだ。
美学の話だから、どちらが良いとか悪いという話じゃない。妙なイントネーションで声を張り上げるもの、彼の美学なんだろう。わざとクセをつけたような歌い方をするのと同じことかもしれない。好みの問題と言えば、そういうことになるのかな。
ただ、来店されるお客様と、自分の美学のバランスは見たほうが良いかもしれないとは思うんだよね。
今日も読んでいただきありがとうございます。王道とか自然に沿ったものには、継承され続けるだけの美が潜在的にあるはずだ。というのがぼくの思想なんだよね。だから、作り込みの激しいものには違和感を覚えてしまうんだろうな。そういうのが「雑」って感じられることもあるんだけど。なかなか難しいもんだ。