今日のエッセイ-たろう

漢字・カタカナ・ひらがな。言葉が与える食べ物のイメージ。 2025年3月13日

ユーチューブのショート動画で、不思議なものを見た。アメリカのとあるファストフード店のドライブスルーで、客はどうやらイギリス人。店員は事あるごとに仲間に「◯◯だってよ」と言いながらクスクスを笑っている。どうやら言いたいことは伝わっているようだけれど、表現がアメリカの標準的なものとは違っているのが面白いらしい。客は苦笑いをするばかりで、店員は嘲りの笑いを繰り返す。

カメラのアングルからすると、客側が撮影したもののようだ。もしかしたら、そういう映像が欲しくてわざとやっているだけなのかもしれない。ただ、ぼくのような外国人が見ても愉快な状況には思えない。そう思わせるのがこの動画の狙いなのだろうか。

英語の本家はイギリスだ。なんてことを言ってもあまり意味がないかもしれないけど、派生形のひとつでしかないアメリカ英語を「正」と捉えている姿は、少々滑稽にも思える。まぁ、そんな事象は世界中にあって、日本だって例外じゃないだろう。

コシのないうどんはうどんじゃない。という人もいるらしい。そういう人にとっては甲州のほうとうや、尾州のきしめんもうどんじゃないという。コシの強いうどんは、うどん界のいちジャンルのはずなのだけれど、独自のカテゴリが成立していて面白い。

一方で、ラーメンやチャーハンは今でも「中国のもの」という意識がある。近年になって、ラーメンが日本食文化に数えられるようになったし、海外からもそのように認識されるようになった。中国や台湾でも日式拉麺と呼ばれていて、魔改造された日本の拉麺を楽しむようになっているという。

それでもラーメンは「中国由来」という意識が広く根付いているし、チャーハンに至っては明確に「中国の料理」と認識されているように思う。餃子も焼売も天津飯も麻婆豆腐も、日本で広く食べられているのに、それらは全て中国渡来の意識がしっかり存在している。

町の中華料理店のメニューの中で、違った存在感を見せているのが「唐揚げ」と「焼きそば」。これが中国由来だとでも言うのだろうか。と首を傾げる人もいるかも知れないけれど、どちらも中国料理である。ラーメンや餃子に比べると、いわゆる「中華」のイメージが薄い。

唐揚げは、江戸時代初期に日本へ伝わった「卓袱料理」「普茶料理」がスタート地点。広く普及したのは戦後のことだとか。

焼きそばは、そもそもチャーメンという。炒飯というのが炒めた飯という文字の組み合わせであるのに対して、炒めた麺は炒麺というわけだ。太平洋戦争の後、徐々に日本で広まっていったのは満州から引き上げてきた人たちの手によるものだという。

なぜ、唐揚げや焼きそばは「中国由来」というイメージが薄いのか。

日本流にアレンジされたからだろうか。駄菓子屋や屋台などで売られるようになったからだろうか。そういう理由もあると思うのだけど、ぼくが注目したのは「名前」だ。

「焼きそば」は、日本の言葉だ。ご丁寧にひらがな混じりでもある。名前の表記が、実に日本らしいのだ。

かつての同僚に荒本という男がいた。背の高いイケメンで、流暢な韓国語と簡単な中国語を話し、いつも冗談を言っているような明るい男。彼は、中国にルーツを持つ韓国人で、本当の名前は朴だ。日本語を流暢に操り、日本に住んでいて日本風の名字を名乗っている。それだけで、日本人だと思い込んでしまう。本人から来歴を聞くまで、ぼくもそう思っていた。

焼きそばは、炒麺につけられた日本名。

と考えてみると、餃子や焼売から異国情緒を感じるのもわかる気がする。日本の漢字にはない読み方だから。一般的に、子という字をザとは読まないし、焼という字もシュウとは読まない。

他の例を思い浮かべてみよう。カレーもハンバーガーもカステラも、それ自体が和食らしくないのだが、カタカナという表音文字が異国情緒を醸し出しているように思える。キムチ、トッポギ、スンドゥブなども、日本で通じる言葉ではあるけれど、日本の言葉ではない。

じゃあ、唐揚げはどうなのだ。しっかりと「唐」という文字が入っているじゃないか。これに関してはよくわからない。言語の問題じゃないかもしれない。無理やり言語表現に結びつけるなら、「から」という言葉の意味が空中分解しているかもしれないということだ。もはやとうもろこしを唐のモロコシキビだと思う人はいないし、唐辛子も唐の国の辛子だとは思っていない。瀬戸物だって、ほとんどの人が「焼き物の器」だとしか思っていないように、音が優位になったせいか、言葉の意味が薄くなってしまうケースも少なくない。現に唐揚げを「から揚げ」と表記されたメニューや看板を見かけることも多い。本当のところはわからないけれど、そういうこともあるかもしれないな、くらいに思っている。

音の響きと表記。どういうわけか、日本には複数ある。カタカナが外来語を表すようになったのがいつ頃のことなのか知らないけれど、今ではそういう事になっている。だから、カタカナ表記が一般的な料理や食材は、どうやら外来品らしいと感じているわけだ。キャベツやレタスに漢字が使われないのもそういうことだろう。

そんなふうにして、全てではないけれど、外来品は外来品としてそのまま受け取っておく、というのが我が国の傾向のようだ。

冒頭の英米の英語表現の違いにまつわるエピソードは、そもそも言語が同じであって、方言のようなものであるということもあるけれど、表現される文字が一種類であることと関係があるのだろうか。表意文字と表音文字の違いなのか、とも思ったけど、ちょっと考えにくい。むしろ、文字タイプが複数あるからだと考えたほうがしっくり来る。

文字や表現が与える「印象」というのは、時間をかけて定着していくのだろうな。世代を超えた頃から、徐々に新たなイメージが作られていく。そう考えると、名前とか表現というのが重要なのだと思わざるを得ない。

今日も読んでいただきありがとうございます。先日、珍しくカタカナで書かれた「チャーメン」を目にした。動画の中で店主が語るところによると、麺を食べ終わったラーメンスープの中に特製チャーハンを入れて食べること、だそうだ。うっかり妻子が信じそうになって、慌てて修正した。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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