日本で一番有名な俳句と言えば、松尾芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」だろうか。まるで興味のない人でも口ずさめるかもしれない。松尾芭蕉の時代には俳句が存在しないので、正確には「俳諧の連歌の発句」なのだけれど、今回はわかりやすいので俳句としておこう。
「古池や蛙飛び込む水の音」の凄いところ
俳句や和歌というのは、「声に出して耳で聞く」ことが前提となっている。文字を見ると、文字数が少ないからか、ほとんど同時に全体の情報が飛び込んでくる。耳で聞くときには、次の声が聞こえてくるまで情報がない。つまり、時間の流れが大切になる。
「古池や」と聞いた時、どこかの静かな古い池をイメージする。春夏秋冬、いつの季節の情景だとしても動きの少ない印象。もしかしたら、鳥や虫の声が騒がしいかもしれない。けれど、それでも「静か」という言葉が似合う。それは、そこに動きがないように感じられるからだろう。
そこに突然「蛙」が現れる。ああ、気が付かなかったけど、そこにいたんだね。蛙が池に飛び込んだことで、音がした。そこに蛙がいたことがわかる。姿は見なかったけれど、その痕跡を感じる。音を聞いただけだから、それが蛙だったかどうかは確証がない。それでも蛙だと感じたのなら、池のほとりに他の蛙がいたのか、それともそれまでの間に蛙の声を耳にしていたのか。
古来、和歌の世界では、蛙は「鳴く」ものだ。古今和歌集の仮名序でも「水に住む蛙の声を聞けば」とある。それが美しいからだ。ゲロゲロというのでもなく、ウシガエルのような大迫力でもない。カジカガエルの、まるで鳥のさえずりのようなリリリリという響きは、長らく定番の題材となってきた。
なのに、飛び込んだ。
もしかしたら、飛び込んだことを知って、その後から声を想像したかも知れない。蛙の声が響く古池だったんだな、と。
定番といえば、蛙には山吹がセットである。梅と鶯のようなものだ。もしこの俳句が「山吹や蛙飛び込む水の音」だったら、「山吹や」と聞いた時点で、「蛙が詠まれるんだな」と予想できてしまう。それをさせずに、違う情景を描いたところが静と動を引き立てている。
超有名な俳句の何が凄いんだろうと思って、少しばかり調べてみた。いろいろ学ぶ所はあったのだけれど、それがぜんぶ腑に落ちたかと言うと、そうでもない。参考にしながら改めて声に出して読んだところで、個人的に感じることが出来たのはこんなところだ。
そして、新しく疑問が生まれた。
俳句のリズムについて、である。
俳句のリズムパターンと休符
俳句と言えば「5・7・5」だ。音の数が、そのようになっている。なんとも心地よいリズム。
「タカタカタンウン、ンタタカタカタ、タカタカタ」
四拍子のリズムで、それが三小節ある。つまり、12拍の中に収まっているように感覚がある。その中で、気になったのは休符の部分。上の表記で言えば、ウンとかンと書いたところ。
「1、2、3、ウン」というリズムに「古池や」がおさまる。それは良い。「蛙飛び込む」の「か」の前に、一瞬間が入っているのだ。音符にすれば八分休符。これは一体どうしたことだろう。
試しに、松尾芭蕉の他の俳句と比べてみよう。
「五月雨をあつめて早し最上川」
これもまた、超有名な俳句である。同じ様にリズムだけを書き出してみると
「タカタカタンウン、タカタカタカタン、タカタカタン」
という感じになる。
「あつめて早し」の「あ」は、1拍目にあたる。その分、後ろに休符があるというか、四分音符になっているように感じられる。どうやら、句によってリズムが微妙に異なるらしい。
これは面白い。
他の有名な俳句も比べてみよう。
与謝蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」も、小林一茶の「やれうつな蝿が手をする足をする」も「古池や」と同じリズムパターン。「夏草や兵どもが夢の跡」は、「五月雨を」と同じリズム。
「かわず」「つき」「はえ」という単語は、2つ目の音にアクセントがある。これが影響しているのかもしれない。アクセントのある部分は、拍子の表(八分音符の1か3)に合わせたい。そのほうが自然に発音出来るからというのも理由のひとつだろうか。
なんてことを考えながら、他の俳句も読んでみようと思い、松尾芭蕉の有名な俳句を見ていたら困ったことがおきた。
「海暮れて鴨の声ほのかにしろし」
「5・7・5」ではない。これは「5・5・7」だ。一体どう読めばよいのだろう。
リズムと間
ちょっとした混乱のあと、改めて前出の「5・7・5」の俳句を見直してみた。今度はリズムだけでなく、意味の切れ目とリズムの組み合わせに注目してみる。
どうも、休符の部分が意味の切れ目と一致しているようだ。
「古池や、蛙飛び込む水の音」
「五月雨をあつめて早し、最上川」
「菜の花や、月は東に日は西に」
「夏草や、兵どもが夢の跡」
これは、一致しない気がするのだけど、どうだろうか。
リズムに注目したら休符が気になったわけだけれど、どうやら俳句の中にある休符は現代音楽のようにはいかないらしい。これが「間」というものだろうか。
リズムと間の違いを言語化するのは難しい。リズムは「一定の時間を分割して、そこに音を配置する」というイメージがある。これに対して、間は「音と音との心地よい距離感」と言えば良いだろうか。間の概念には、時間の幅という枠が無いような気がするのだ。
リズムというのは、基本的に一定の間隔で音や休符が配置されている。だからこそノリが良くて、日本の歌曲なら祭り囃子が代表的だし、西洋音楽は全体的に一定である。現代人は、この一定のリズムを奏でる音楽に慣れている。だから、俳句を西洋音楽的リズムで捉えるのだろう。でも、実際はそうではなく、雅楽や能のような一定ではない音の配置、つまり「間」が重要なのかもしれない。
わかるような、わからないような、モヤモヤする感覚。「間」とは一体何なのだ。
会席料理と間
会席料理は、一皿ずつ順番に提供される食事のスタイルだ。一般的にコース料理などと言われる。平面軸に料理を並べるのではなく、時間軸に並べるというイメージ。平面軸ならば物理的な距離が「間」になるし、時間軸ならば時間が「間」になる。
そして、「間」は一定ではないのが普通だ。
量が少なくて淡い香りを引き出した料理が続く場合、あまり長い間をおかずにポンポンと提供することがある。かと思えば、「次の料理はまだかな」と思うくらいの間を取ることもある。前者は、「色とりどりの季節を感じてもらいたい」という意図が込められているだろうし、後者は「食べ終わった料理の余韻」を感じつつ、「次の料理への期待」をふくらませる時間にもなる。
意味を最大限に発揮するために、適切な「間」をとって、心地よいところに料理を置く。
というのが、料理における間の取り方だろうか。
時間的な余白があることで、自分なりの解釈を楽しむことができる。
講演会や授業を思い浮かべるとわかりやすいかもしれない。新しい情報をいくつも連続して聞いても理解が追いつかないことがある。少し、自分なりに考えて解釈する時間が欲しいのだ。一人で考えてもいいし、誰かと対話をしても良い。
料理や俳句の場合は、そこに正しい答えが存在するわけではないだろう。ただ、自分なりに解釈することで、より深く世界に入り込んで楽しむことが出来る。間は、作者が固定しなかった意味を、自分の感性で固定しようとするためのものなのだろう。ちょっと表現が難しいけれど、余白の美というのはそういうことなのかもしれない。
俳句と間
改めて俳句に戻ってみよう。
「夏草や兵どもが夢の跡」は、意味的には「や」で切るのが心地良い。けれども、リズム的には「が」の後に間があるように感じる。この間を感じ取ることで、「夢の跡」の儚さが際立つように思えてくる。
同じように、前述の俳句も読み直してみる。
古池をイメージさせておいて、パッと動きのある世界へと切り替わる。雨粒が集まって流れになる情景が、最上川という大河の壮大さへと場面転換する。菜の花という身近なものから、月や太陽へと目を向けるスケール。
場面転換の部分に、間が埋め込まれている。
つまり、意味の切れ目と音の切れ目を重ねたりずらしたりすることで、世界が広がりを見せているのだ。そんなふうに、私には感じられる。
「海暮れて鴨の声ほのかに白し」
この俳句は、あえて「5・7・5」から外してある。声に出してみると、とても間が多い句のように感じられる。特に「鴨の声」のあとには、ずいぶんと長い余韻があるような気がするのだ。試しに「海暮れてほのかに白し鴨の声」と読み替えてみると、その差がはっきりしてくる。元の句に比べて、ずいぶんとのっぺりした印象だ。
もしかしたら、鴨の声という音を「ほのかに白い」と表現する驚きと、その寂びた感じを表現するための工夫だったのだろうか。芭蕉自身の意図を確かめることは出来ないけれど、それを想像することも楽しいものである。
今日も読んでいただきありがとうございます。
特に俳句が好きだというわけでもないのだけどね。日本の食文化を読み解くには、どうしても和歌の知識が必要になりそうな気がするんだ。どんなものを美しいと感じるのか、それをどんなふうに表現するのか、っていうのは共通する部分だと思うんだよね。料理ってさ。食材だけじゃなくて、文化の影響がすごく大きいから。
最近ちょっとずつ古今和歌集を書き写してるんだけど、あんまりよくわからないんだよね。まだ20首ちょっとしか書いていないからかな。全部書き写し終わる頃には理解が深まるんだろうか。