店の周りの桜が散り始めた。風に舞う様子は儚くも鮮やかで、花びらの絨毯は柔らかく光を跳ね返している。今年は少しばかり開花が遅く、春らしい陽気になるのも遅かったけれど、相変わらず暑くなるのは早いのだろうか。年々、春秋の期間が短くなっているような気がする。
古今和歌集に代表される勅撰和歌集で、最も多く歌われる季節は春秋だという。ちゃんと全部を読んだわけではないけれど、知っているいくつかの和歌は確かに春や秋のものが多い。古気候学によると、平安時代も夏や冬らしい日のほうが多かったらしい。比較的短くて、変化の大きい春秋。日本の、というと主語が大きすぎるかもしれないけれど、連綿と続くこの国の文化では、春秋が季節の主役であり続けたのかもしれない。
本膳料理や会席料理が最も華やぐのもやっぱり春秋の季節。食材の種類が豊富で、買い物に行くと買う判断よりも買わないことを決めるのに悩むくらいだ。食材だけでなく「らしい」食材が多いのも面白い。夏には夏の冬には冬の食材があるのだけど、ある食材を見て「夏が来たね」「冬が来たね」ということは春秋に比べると少ないようだ。春ならば、筍やわらび、新玉ねぎに新じゃがいも、キャベツに菜花と、野菜だけでも書き出したらきりがない。きゅうりを見たら「夏がきたな」と思うだろうけど、筍やわらびを見たときに感じる「春だなぁ」というインパクトのほうが大きい気がする。不思議なことだけれど、春という季節が好きな人が多いのだろう。
春になって料理が華やぐのを楽しむ一方で、気にしなくちゃいけないのは食品衛生だ。情緒の話をしておきながら現実に引き戻すようで申し訳ないのだが、暖かくなるということは菌の繁殖が活発になるということでもある。人間にとって心地よい気候は、菌にとっても心地よいらしい。
もちろん、一年中気をつけているのつもりだけど、春から夏にかけては特に気を引き締める。桜が散り始めたら、そういう時期が来たというサインだと思うことにしているのだ。
SNSなどで流れてくる情報を見ていると、ちょっと心配になることがある。お弁当を作ったら、ちゃんと冷ましてから盛り付けないといけないよ。などと誰かが発信すれば、知らなかったと驚く人がいる。中には、ご飯が美味しくなくなってしまうから嫌なんだ、という人もいて見ているこちらが驚くこともある。
食べ物は美味しいし、食べることは生きるためだけでなく楽しいことでもある。それはそうなのだけれど、油断すると突然牙を向いてくるもの。保存技術の発達した現代社会で、しかも衛生にとびきり気を使う国で暮らしているとうっかり忘れてしまうかもしれないけれど、ぼくらの先祖たちは食品衛生と戦ってきたのだ。平和ボケという言葉を食品衛生に使うと違和感があるかもしれないけど、現実に起きている現象だと思う。
小中学校の教育に食品衛生という項目があるのだろうか。遠い記憶のなかでは、家庭科の教科書の中にそんな項目があったような気がするけれど、内容についてはあまり覚えていない。食品産業に携わる人たちは、保健所が開催する食品衛生講習会に参加する事になっている。年に1度だけのことだし、基本的には責任者だけが出席すればよいのだけれど、定期的に学び直しのチャンスを用意してくれているのはありがたい。
事業者としての責任だったり、業務上のリスク管理だったりと、ビジネスとしての危機感もある。それもそうだけれど、本当はもっと大切なことを体に染み込ませて置かなければならない。食べ物は、油断すると命の危険を脅かすもの。歴史上、戦争や疫病などとの戦いと同じように、いやもっともっと古い時代から食品衛生は人類にとっての代表的な厄災であり続けたのだ。天災であり捕食者であり人災でもある。たべものラジオを聞き続けてくれている方ならよく分かると思う。
知識を学ばずに安易な思い込みで扱うと、家族や友達を巻き込んだ事故になりかねない。やたらと低い温度で行われる低温調理や、タレの熟成、煮物に味を含ませようとして常温で冷ます、保存容器の取り扱いなどなど。自分に言い聞かせる意味で言語化したのだけれど、これを読んで気をつけようと感じていただけたらいいなとも思っている。
今日も読んでいただきありがとうございます。食品衛生講習会、個人的に好きなんだよね。学び直しが面白い。あれ、社会全体でやったらいいかもしれないな。日本も亜熱帯化してきてるしね。そうそう、お弁当は、ご飯を冷ますとぱさぱさになって美味しくなくなるって言うんだけど、お弁当のときはいつもよりも少し柔らかめに炊くんだよ。温かいご飯とは違うけれど、少し緩和されるから。