新規性を問われる場面がある。会社の事業、起業して投資を得る時。音楽や絵画などのアートの文脈でもそうだし、スポーツや旅行、政策などなど。明確な評価軸として新規性が語られることもあれば、雰囲気ということもある。今までとは違うことが試されるのだけれど、それは本当に良いことなのだろうか。
現代の社会で、どこかうまくいっていないところがあるとする。今までのアプローチではうまくいかなかったから新しい方法で挑戦する。そう言うと、たしかに新規性は重要か。だけど、うまくいっていないのは、方法だけが問題なのかという問いが残る。人的な問題や、仕組みのほころび、単純に量が足りないだけということもある。
課題があって、それを解決しようと必死に考えた結果として、新しい取り組みになるということはある。もしかしたら、既存のやり方のままリソースをどうやって増やせばよいかということを考えるかもしれない。新規性が問われるのは、結果として新しいものになったかどうか、ってことじゃないかと思うんだ。
言い換えると、目新しさを目的に設定する、ことには危うさがあるといえる。
ビジョナリー経営とか、未来からのバックキャストとか、いろんな言い方がある。「こうありたい」という未来の姿があって、それを実現するためにはどうすればよいだろうって考える。それはたいてい新しい社会。歴史の何処かに似ているとか、良いところを取り入れようとはするけれど、過去とは明らかに状況が違うから、新しい社会になる。その「新しさ」と、事業の「新しさ」に引っ張られているのか。それとも、もっと単純な話なのだろうか。ぼくらは「斬新だね」という言葉を褒め言葉に使いたがる生き物ということもあり得る。
会社の事業を考える時も、観光政策などの提言をする時も、やっぱり新規性を意識してしまう自分もいる。理由のひとつには、新しいものの方が儲かるような気がするということがある。それも錯覚なのだろう。古典落語の名手は、新規性のない話を誰よりも面白く、誰よりも豊かに演じる。
新しい事業を思いついたと思っても、実は既に社会に実装されていることもある。既に存在していて、社会に貢献しているのに、ただ自分が知らないだけ。これは、事業に限らず料理のレシピでも度々出会う。だからといって、必ずしも勉強不足だとは限らない。一定の認知があるのならば勉強不足という子になるだろうけれど、実装が限定的だということもある。
既に社会実装されてはいるけれど、それは思いついた事業とは類似しているだけで、想定しているターゲットにリーチしていないとか、横展開してもマッチしないという場合もある。
事業が成立してない場合もある。挑戦したけれど成立しなかったとか、成立したけれど継続できなかったとか。アイデアはあったけれど、そもそも挑戦していないということもある。
何と比べて、思いついた事業が新しいかどうかを判断するのかはわからない。ただ、先行事例があるのだから、それを学ばない手はないとも思う。どこかで躓いているのなら、全てを刷新する必要なんかない。躓いているポイントを修正することに意識を向けるだけ。それも、自社で完結させる必要なんて無い。というか、補完するサービスを展開するとか、サービスの改善を提供元に提案するとか、そういうアプローチだって良いわけだ。実現したい社会が同じなら、手柄を独占するよりも共創したほうが早い。
正確に情報を入れる。というのは、なるべく解像度高く観察するということ。そのためには、社会を観察するための知識と知恵がいる。そうしたところにアカデミック領域の知見が生きてくるのだろう。
今日も読んでくれてありがとうございます。ある程度は自分自身で学ぶ必要があるのだろうけれど、そこに集中しすぎてしまうと肝心の事業を遂行するエネルギーが足りなくなってしまうんだよね。それは、反省とともに実感している。人の手を借りるのが良いんだろうな。