今日のエッセイ-たろう

サバ缶が消える。 2025年6月27日

人気のサバ缶が販売終了になってしまった。詳しいことはわからないけれど、サバの不漁や原材料のコスト増が理由だそうだ。テレビのニュース番組では取り上げられないけれど、人気の高かった商品だけに注目が集まっているらしい。とても残念なことなのだけれど、せめてこの機会に「サバの不漁」「海洋資源」に注目する人が増えたら、と思う。

マサバが減少した原因は、海流や水温といった自然環境の変化や、獲りすぎなどと複合的なものだろう。ただ、近年の漁労を見る限りは乱獲が問題になりそうだと思う。というのも、普段からそうした感覚を得る機会が多いから。売れ残った魚をもってきて、買ってほしいと言われることがあるのだけれど、見込み違いで多すぎたというのであれば仕方がない。そもそも網猟で量をコントロールするなんて難しいことだし、どのくらい売れるかという予測も難しい。多少は仕方がないと思うのだけれど、季節外れのちっちゃなふぐや、ほっそいタチウオなんかは、正直なところ放流してほしい。こういう表現は魚に失礼だけれど、未完成の商品を流通させるようなものだ。放流したとしても、それが自分のことろに返ってくる保証などないけれど、水産資源という共有財産を守る気持ちはあってほしい。

マサバは広域資源だから、個々の漁業者には個体数の減少の全体像がわかりにくい。たまたま自分の漁場に来ていないだけなのか、それとも資源全体が減っているのかを判断できない。これを判断するには、広域に関するデータを見るしか無い。複数の県をまたぐ広域連携があって、話し合いの場でもあれば良いのかもしれないけれど、それもない。テリトリーが分断されていることが課題の一つである。

個々の意識が高ければ、そんな組織はいらないのかもしれない。例えば江戸時代の入会地などは、それなりにルールはあったけれど、ある種の信仰のような形でみんなで管理できていた。誰か1人だけが利益を収奪することが出来ない環境が出来ていたらしい。意識の高さと表現するのが適切かと言うと疑問だけれど、精神的な部分で規制がかかっていたという意味では近いかもしれない。

今のところ、漁業に関しては意識の高い人が損をする状況になっているように見える。水産資源を守るために、育ちきっていない個体が捕れたとしても逃がす、というのも労力がかかる。それに、結局のところその個体は別の誰かによって漁獲されて販売されるのだ。売れなければ売れないで廃棄となる。網から外して放流するというコストを考えたら廃棄したほうが安く済むのは事実。魚の命や資源のことを考えれば文句を言いたいところだが、じゃあ自分がその立場だったら出来るかと言うと自身がない。漁業者の収入は厳しいのだ。燃料代や設備修繕などのコストは上がり、日本近海の水産資源は全体的に減少傾向。それでも、家族や従業員の生活を守らなければならない。

似た構造がアメリカにあった。19世紀後半、アメリカ横断鉄道が開通して全米各地が繋がった。これによって、ローカル企業の商品が全国流通するようになったのだ。漁業と比べると商品の流れが逆のように見えるが、お金を獲得する市場=漁場という視点。この時代、全てではないけれど多くの企業はなりふり構わない販売戦略を取っていた。医療的根拠もなく「◯◯に効く」といったものだったし、現代人ならば誰でもわかる嘘をばらまいた。ライバルが開発した機械を製造元から全て買収して困らせるなど日常茶飯事。そして、大量の商品を生産して多くのマネーを自社に囲い込もうとしてきた。

幸いなことに、サバと違って人間は別の要因で増え続けていたし、産業革命のお陰で市場経済は伸びていたのでなんとかなった。そもそも、魚とお金は違うものなのでこの例え話にも限界があるのでそのあたりはご容赦いただきたい。この状況下で注目したいのは、州当局による規制が機能しなかったという事実。マーケットの拡大とともに企業そのものも広域分散することになった。そうすると、こっちの州法は隣の州では適用できないという事象が発生する。初期連邦制の欠陥が生まれた時期だ。そこで、合衆国政府は統一したルールを設定する必要に迫られ、法令や、州法のガイドラインを制定することになる。

水産資源の管理に関して、様々な議論があると思うけれど、やはり広域連携に関しては広域を管理する組織がなにかしらの対応をするのが良いのだと思う。国で法整備を行って、日本全体の水産資源を守る。もちろん、そんなことをすれば反発が起きる。当たり前だ。自分の商売を阻害する規制など誰も喜ばない。それは、どんな業種であっても同じことである。だからこそ、の政治なのではないかと思う。漁業という産業そのものとそれに携わる人の暮らしを守りながら、なおかつ豊かな水産資源を守る。容易いことではないのは素人でも想像できるが、だからといって放置できる状況ではなくなってしまっている。

日本は天然資源の乏しい国だというのは周知の通り。そんな中でも、世界でも有数の資源と言えるのが、水と海洋資源だ。天然資源に限って言えば、これを失うと日本に残される資源はジリ貧になる。そう考えたら、もっともっとシビアに敏感になって良いのじゃないかと思うのだ。

まぁ、資料や日常の観察から思うのはこんな程度。実際には、ホントにいろんな苦労があるのだと思う。漁業の現場の人や、行政担当者から話を聞いたら、もっともっといろんなことがわかるのかもしれない。個人としても具体的な活動をしているわけじゃないので、ただの外野だ。ただ、せめて情報を届けたり人をつなぐということくらいは貢献したいと思っている。

今日も読んでいただきありがとうございます。水産庁の資料をみると、国だって何もしていないわけじゃないんだってことはよく分かるんだ。放流したり、限定的ながら漁獲制限したりしている。けど、けっこう地域限定というのが多いんだよね。あんまりギチギチの規制じゃなくていいから、国全体の漁業を守るためのルール設定まで踏み込めないものかな。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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