外食産業って、どういう存在なんだろう。
歴史を紐解けば、いくつかの目的がルーツとして見えてくる。
ざっくり外食文化の歴史
最初は、外出時の食料供給。旅に出たら、移動中の食料をすべて持ち運ぶのはなかなか大変だ。何週間も歩いて行くのに、その間の食料を持参するには無理がある。しょうがないので現地調達をすることになる。狩猟採集で賄うというのは、アニメなどでも描かれることだけれど、ある程度まとまった数の人が求めるのであれば、必要に応じて外食が発生するというもの。
ビジネスとして儲かる。というのもあるけれど、そればかりではない。欧州などでは宿屋や宗教施設が外食をになっていたこともある。ニーズに応じて発生したケースも多いのだろう。
次に登場するのは、日常の食事の代行業。食事というのは、各家庭や集落単位で用意するもの。その中で、食以外の仕事を分担するようになっていく。すると、食事を用意する時間が確保できないとか、家庭環境に寄っては自炊する術がないという人も現れて、誰かが代行してあげることになる。
代行業としての外食産業は、主に都市部で発展してきた。江戸時代の江戸が典型的だ。地方から多くの職人がやってきて、江戸人口の3分の1は男性ということになった。朝から大工仕事などを行い、夕方になると屋台で食事を済ませてから帰宅する。そんな生活スタイルが登場するのだ。食糧生産とは関係のないビジネス、つまり商工業が発達すると、貨幣経済が加速して仕事が忙しくなっていく。仕事が忙しいから家事の代行業が発達する。代行業は、ワーカホリックな環境でこそ拡張しやすいということだろう。
時代は下って近代。工業化が進むと、食品加工業が成長する。以前から味噌や醤油などの調味料の生産は行われていたのだけれど、それ以外にも加工食品が工業的に生産されるようになった。缶詰やコーンフレークのように、調理の手間がかからない食品が登場する。コールドチェーンが確立する頃には、調理済みの料理が加工食品のように流通するようになっていった。外食ではセントラルキッチンを備えたチェーン店が広がり、ファストフードが世界へと店舗を広げていく。日本のコンビニエンスストアに見られるような、惣菜も発達した。
出先の食事として飲食店と弁当が登場。それが家事代行の役割を担うようにもなり、やがて工業的なビジネススキームで生産されるようになった。
これがざっくりとした流れだが、その合間に「食べる楽しみ」を見出そうとするのが面白い。実に人間らしい振る舞いだ。花見に行くときの弁当は実に華やかで豊かな味わいを盛り込むし、会合の際にも味も見た目も他の良い料理が並べられた。こんな豪華な食事が庶民の口に入ることはなかったけれど、屋台の寿司や蕎麦だって、庶民の舌を楽しませる工夫が次から次へと生まれたのだった。
外食の楽しみをざっくり分類
「美味しいものを食べたい」「食事を楽しみたい」という欲求は、それなりに多くの人が持っている。それが幸福に繋がるからだ。中には、食欲を満たせるなら味は気にしないという人もいるけれど、歴史の大きなうねりの中では少ないように思う。基本的に同じものを食べるのが普通だった地域も多いけれど、それは現代のように手軽に料理を楽しめる環境になかったからだ。できれば、美味しいものを食べたい。だから、ハレの日には特別な料理が作られるのだ。
「楽しみとしての食」を産業別に分類してみようと思う。
例えば、コンビニ弁当などは音楽業界で言えば、CDを購入するようなものだろうか。演奏も歌も別々で収録されていて、細かなところまで気が配られた編集が行われている。楽曲の順番や曲間の長さまで考え抜かれていて、素晴らしい作品だ。これはCDという物体となって素晴らしいパッケージに収められたら、流通に乗って全国へと配布されていく。すべての工程で、ハイクオリティ。これが日本のコンビニ弁当の凄まじさだ。
これに対して、ぼくらのような飲食店はライブやコンサートになる。演奏中にちょっとしたゆらぎやミスもあるのだけれど、代わりにお客さんとの一体感がある。収録音源にはなかったアレンジもあるだろうし、その時々の雰囲気で会場全体の盛り上がり方も変わる。アーティストのセリフだって、毎回同じになるはずもない。そういったライブ感が楽しいのだ。だから、CDを持っていても、スマホの中に楽曲が入っていても、いつも聞いているのにライブに出かけていく。
だとすると、いつでもどこでも同じ味を提供するチェーン店などは、自動演奏をするピアノのような存在になるのだろうか。生音だけどプログラムを忠実に再現する、というあたりがそれっぽい。
ショッピングモールに見られるようなフードコートは、複数のバンドが出演する対バンライブに思えてくる。けれども、チェーン店ばかりだと自動演奏の楽器の展覧会の様相かもしれない。その点、地域のイベントに出店しているキッチンカーの一群こそが、対バンの野外ライブらしい雰囲気があって楽しそうだ。
じゃあ、まちの飲食店は何か。といえば、ワンマンライブということになるのか。しかも、ライブハウスの経営まで行っている。これはなかなか大変なことをやっているようだ。
飲食店の弱点(?)ー業界比較
基本的に、現代のビジネスはスケールアップが成長のポイントになっている。なるべくたくさん作って、なるべくたくさん売る。CDもコンビニ弁当も冷凍食品も、小売店に並ぶ加工食品はたくさん作ってたくさん売れたほうが企業の成長につながる。
そうなると、困るのはライブだ。小さな会場に入ることが出来る人の数は限られている。もし、ライブでスケールアップするなら大きな会場を使うことになる。例えば、東京ドームなどの大きな箱に沢山の人を集めることができれば、一度の生産=演奏で沢山の人にサービスを提供できる。これが出来るのは、マイクやアンプ・スピーカーなどの音響機器のおかげだ。イベントが大きくなればその分だけコストも大きくなるのだけれど、それでも「商品の増幅」を担う音響機器による恩恵は大きく、コストを大きく上回る利益をもたらしてくれる。
飲食店には、音響機器のように「商品を増幅」してくれるテクノロジーはない。このあたり、もしかしたら3Dフードプリンターのような存在が活躍することになるのかもしれない。
ライブの集客は、アーティストの知名度に大きく影響を受ける。もちろん、クオリティも必要だけれど、その商品がどんなものなのかを知られていることが前提になっているように思う。好きなアーティストだったら、楽曲音源を持っていて普段から聞いているかもしれない。そうでなくても、メディアなどを通じて耳にすることがあるかもしれない。音楽以外に露出の多いアーティストだったら、ドラマやバラエティ番組を通じて知ることになるということもあるだろうか。
興味深いのは、CDなどのスケールが前提のビジネスが、ライブの広告にもなっていること。有名アーティストは、この2つのビジネスを展開しているのだ。
有名な飲食店も同じ現象がみられる。自らの店舗以外にも、プロデュースや監修を行うことで、店の知名度が格段に上がる。有名ラーメン店はカップラーメンになることもあるし、一流シェフが加工食品のレシピ開発に携わることもある。
大きく異なるのは、それらのスケールゾーンのビジネスが飲食店への誘導に繋がりにくいところ。カップラーメンを食べたからと言って、そのラーメン店に足を運んでみようとは思ったことがないのだ。なぜだろう。ぼくの主観だけど、そのカップラーメンや加工食品が、料理人の演奏に繋がるようなクオリティやジャンルではないからではないだろうか。CDとライブ、カップラーメンと店のラーメン。後者のほうがギャップが大きいような気がするのだ。
もしかして、これこそ3Dフードプリンターの出番なのか?料理人の料理を、音楽配信のように届けることで、ライブを楽しみたいというマーケットを育てることが出来るのだろうか。だとしたら、料理人という生き方にも、光が見えてくる。
郊外にある単独店の孤独
それにしても、飲食店は資本主義的なスケールアップビジネスとは相性が悪い。音響機器のないライブが、大量生産大量消費に適していないのと同じ理由だ。しかも、箱のサイズだけではなく、物理的な生産力まで必要としている。
だとするならば、ライブとしての価値を高めるしかない。簡単に言えば「高付加価値化」だ。とにかくハイクオリティな料理を提供して、その分価格を上げていく。だからといって、高級食材ばかりに頼るのは危険だ。結局のところ原料費も上がってしまうことになる。一方で、大根や人参で高級料理を作ったとしても高値で売ることは難しい。消費者が高すぎると感じるからだ。だとすると、元々“高いと思われている食材”に価格を上乗せして、「◯◯だからしょうがないよね」という理解をしてもらうことになる。
個人的には、どちらかもいまいち好きになれない。せっかく会席料理を展開しているのだから、「パッケージといての料理=食事体験」の価値を高めるのが良いだろう。味や見た目はもちろんだけど、設えなどにも気を配る。演出がすぎると、料理が主役になりすぎる。それも一つの楽しみだろうけど、時々でいい。基本的にはお客様同士が楽しく「食事という時間」を楽しむことが最優先。程よい演出が良い。
きっと、それぞれ店にそれぞれの楽しみが埋め込まれていて、それが愛されている。スケールこそしないけれど、長らくそこにあり続けるのだ。広がりは少ないかもしれないけれど、長さだけなら負けない。という飲食店も全国にたくさんあって、それらは資本主義とは別の世界観でスケールしていると言えるかもしれない。
外食ビジネスのこれから
日本では、外食産業に対する投資はかなり厳しい。アメリカや中国などでは、スタートアップが可能らしいのだ。この差は、外食産業に対する期待値の違いとも言えるだろう。一方で、プレイヤーの目指す方向の違いも含まれているのかもしれないとも思う。つまり、「生演奏」と「コピペ」の違い。どちらにビジネス的な価値を期待しているのかは、押して図るべしだ。
ただ、あまりコピペに気を取られていると、日本の食文化の価値が薄れるリスクも有る。詳しくは述べないが、近代以降のビジネスが無形資産とも呼べる食文化を消失させた例は国内外でいくつもの事例が見られる。もしかしたらそれすらも、3Dフードプリンターやキッチンロボットなどのテクノロジーが世界を変えることになるのだろうか。
今日も読んでいただきありがとうございます。
外食の価値については、今までにもいろいろと考えてきた。今回は、歴史的な流れを再確認してみたり、音楽業界をメタファーとして考えてみたり、今までとは別角度から考えてみた。何かが掴めそうな気がしたのだけれど、まだぼやっとするんだよなぁ。また、時をおいて考えてみることにするよ。