今日のエッセイ-たろう

「時間で働く」は、いつから正解になったのか。

“深夜帯に「休憩時間を過剰取得」で懲戒”というニュースを見た。別に、この件について意見があるわけじゃない。ただ、ちょっとした違和感を覚えたのだ。しばらくニュースのことは忘れていたのだけど、今頃になって違和感の正体に気がついた。

それは
「そもそも“時間で働く”という概念が実態に即しているのか?」
という、問いとして湧き上がってきた。

働くことは暮らしの一部

現代では、多くの人が生活空間と職場が分かれている。自営業者ですら“通勤”している人も少なくない。だけど、人類は長いあいだ日常の暮らしと働くことは地続きで、分けて考えることもなかったのだ。家の掃除も畑仕事も似たようなもの、というような感覚だったのだろう。

忙しい時期になれば、まだ日も昇らない時刻から畑へ行って作業をしただろうし、日が沈むまで汗を流しただろう。かと思えば、季節によっては比較的ゆっくりと過ごしたこともあっただろうか。1年の間にも忙しさの度合いは違うし、もっと細かく見れば1日のあいだにも忙しさの濃淡があった。そうやって、ぼくらの生活サイクルはぼくらが決めるのではなく、自然の流れにあわせていたのだ。

江戸時代以前は、人口の8割が農業従事者だったというから、日本全体でこの感覚を共有していたのではないかと思う。

近代化と時間の使い方

”就業時間”という観念が普及していったのは、産業革命以降のこと。19世紀のイギリスでは工場労働者の長時間労働が問題になり、徐々に労働時間は8時間になっていった。マルクスが指摘するように資本家による搾取構造はあったのだろうけれど、もしかすると“就業時間”という感覚が無かったのかもしれない。だから、産業革命期の初期の頃は長時間労働があまり検討されにくかった、と。

19世紀末から20世紀初頭にかけて、世界的に労働時間短縮運動が広がっていった。たとえば、資本家はこんな事を言ったかもしれない。「短縮するのだから、就業時間中はきっちりと働いてもらおうじゃないか。」
実際に言ったかどうかは知らないが、気持ちはわかる。結果として、”時間通りに来て契約時間内はしっかりと働く”ことを定められ、労働の管理が重視される社会になっていったのだろう。
細かく調べたわけじゃないけれど、概ねこんなところじゃないかと考えている。

工業化社会の圧力

就業時間の概念は、たぶん大きな工場では有効な考え方だろう。特に、生産能力が労働者の頑張りに左右されにくくなってからは””時間”で管理するほうが効率がいい。工場の生産力を上げたければ新しい機械を導入すしたり、仕組みを変えたりするほうがずっと効果がある。人間の作業効率の個体差などは、大差ない。手作業の仕事だとしても、個人を成長させるのではなく人を増やせば良い。なんてことになってくる。

つまり、「比較的繁忙期と閑散期の差が少なく、クオリティや生産量について個人の能力に依存しない」という条件下においては、就業時間をきっちり守って働くことが最も合理的ということになる。

そして、工業立国を目指した多くの国では、この考え方が広く受け入れられることになった。
だが、いかに工業立国を果たしたとしても、工業だけで社会がまわっているわけではない。

たとえば、飲食店のランチタイムは目が回るほど忙しいが、14時にもなる頃にはすっかり客足は遠のいていく。だから、「夜の営業まではのんびり昼寝をする」という人も珍しくない。夜の営業の準備さえ出来ているならば、オープンぎりぎりに起きたって構わないわけだ。むしろ、閉店まで頑張るために体力を回復しておいたほうが、働く人にとっても雇い主にとっても都合がいい。

こんな感じで、週末と平日、繁忙期と閑散期には忙しさにギャップがある。場合によっては、休憩時間など吹き飛ぶことだってある。もしかしたら、その都度フレキシブルに稼働数を変えられたら良いのかもしれないけれど、そういうわけにもいかない。それは、雇用を守るという意味ももちろんあるのだけれど、忙しいときも高いクオリティで乗り越えて行けるのは、それが出来る能力のある人材のおかげなのだ。個人の能力に依存していて、換えが効かない。

つまり、「繁忙期と閑散期の差があり、クオリティや生産量について個人の能力に影響を受ける」という条件下においては柔軟に考えたほうが合理的だ、ということになる。

問題は、後者はルールによる運用が難しいことだ。「ケース・バイ・ケースでわざわざ考えるのは認知不可が高すぎるから、このルールに従おう。」ということにしておけば、ある程度オートマティックに仕事が進んでいく。特に、大きな集団ではこれが有効である。
ということで、割と”工業的な就業管理”に合わせた仕組みが社会実装されているし、中にはそれこそが正義だと考える人も出てくる。ここに、仕組みと実態のギャップが生まれる。もしかすると、件のニュースはこうしたギャップによって生まれたことなのかもしれない。ニュースだけでなく、似たようなギャップは社会のあちこちにもあるのかもしれない。と思いいたったというわけだ。

時間の使い方

現代でも柔軟な時間の使い方ができるのか。答えは「出来る」だ。実際に、”仕事”、”趣味”、”生活”の時間はその時々で自由に変化するという人はぼくの周りにもたくさんいる。「雨が降ってるから外に出たくない。」という理由でリスケすることもあれば、土日も関係なく働きっぱなしだということもある。自営業者や経営者にとっては、そんなの当たり前だという感覚すらあるかもしれない。

だが、自由な時間の使い方はもっと幅広い。前述のイギリスにおける労働時間短縮運動には「8時間労働、8時間休息、8時間自由」というスローガンがあった。身の回りにいる多くの自由人は、労働と自由の時間を、自分の好きなタイミングで使い分けている。実は、休息の時間すらもタイミングをコントロールする人達がいるのだ。

そして、そうした時間の使い方がアタリマエだという社会のほうが、人類の歴史ではずっと長い。

たとえば、朝はめちゃくちゃ早起きをして農作業をするけれど、昼食後は4時間くらい寝ている、という生活もある。真夏は暑くて日中の農作業がしんどいのだ。少し涼しくなった夕方に畑へ行くのだけれど、暗くなってしまえば作業ができない。夜は夜ですることがないから、早々に寝てしまう。そうすると、深夜になって目が冷めてしまうので、仕方ないからトイレに行って、寝付けないから夜なべをする。で、少し横になったら、早朝から畑へ行く。そんな生活サイクルは”一般的”だったのだ。

つまり、多くの人にとって、これこそが最も合理的な生活だったのである。
もちろん、すべての人がそうだったわけではないだろうけれど、農業中心社会では多数派だったと考えている。「これが合理的でいいよね」という感覚は、社会背景によって異なるのだ。現代は、どちらのバリエーションも実在しているが、価値観が偏っている気がするのだが、どうだろうか。いまだに国民教育の影響が根強いということなのかもしれないなどと思ってしまうのは、ちょっと考えすぎだろうか。

今日も読んでいただきありがとうございます。

特に主張したいことがあるわけじゃないんだけど、さ。朝は起きて夜は寝るもの、なんてアタリマエだとされていることもアタリマエじゃなかったりするわけでしょう。それも、個人のわがままじゃなくて、合理的に考えたらそうなったという社会もあるわけだ。ぼくらの知っている常識って、普遍のものじゃないんだなって、思い知らされるよね。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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