「お休みの日は何をして過ごしますか?」
まるでお見合いの定型文みたいな質問だけど、みんなどうしているんだろう。
私の場合、半日は映画を見たり、本を読んだりするのが定番。まとまった時間が確保できるタイミングって、限られているから。そして、午後になると子どもたちが学校から帰ってくるので、家族で過ごす。一緒に折り紙をしたり、ごっこ遊びをしたり。その後は夕飯の買い物に出かけて、ゆっくりと食事をする。
まとまった休みは家族旅行に行くこともあるけど、それは年に1〜2回くらいかな。どちらかというと、公園で遊んだり町を散策したりすることのほうが多い。そういえば、あまりテーマパークに行くことはない。
日本人は、遊ぶのが下手だと言われるけれど、実際の所どうなんだろう。
遊びが好きな日本人
現代では、アクティビティやゲームのことを”遊び”と呼ぶことが多いようだ。けれども、私達の先祖はそうじゃない。もっと身近なところで遊んで暮らしていた。と言っても放蕩三昧のような遊び方ではなく、日常のあれこれに遊びの要素を取り入れていた。そう意識していたわけじゃないだろうけど、私にはそう見える。
具体的に言うと、例えば、陶磁器のお椀を作る場合だ。お椀は使いやすくて丈夫であれば必要な機能を満たしているし、それなりに形が整っていれば充分だ。椀の角度や飲み口の形状などは、機能的には意味が薄い。使う人も、そこは気にしないと言うかもしれない。だけど、”つい”追求し続けてしまう。「もっと(自分にとって)心地よい角度」を追い求める人がいる。もう、土と戯れていると言っても良いかもしれない。
料理は「遊び」がめっぽう多い。本来、食材を切るという行為には”食べやすくする”とか、”火の通りを良くする”という目的がある。ところが、”きれいにスパッと切る”ことにこだわりを見せる人たちがいる。刺し身は、その切り口のなめらかさによって味が変わるのは事実で、日本料理人はその点を追求している。だが、そのことに気がつくお客さんは圧倒的に少数派だ。
つまり、そこに意味を見いだせる人にとっては大切だけれど、そうでない人にとっては無くても困らない。そういう意味では、松や梅花をかたどった飾り切りなどは無意味だし、究極的には盛り付けなどどうでもいいということになる。文字通りの意味で必要かと問われれば、不必要なのだ。全然「かならず」ではない。
素材と戯れる感覚。わたしは、こうした部分が”遊び”なのだと思う。
よくよく考えてみれば、歌も遊びの一部だといえる。歌がうまいからと言って、その人が政治的なリーダーに相応しいかどうかは別物のはずだ。ところが、平安時代にはけっこう重要だったそうだ。もちろん和歌だけですべてが決まるなんてことはないが、和歌を詠んだり評価したりできるくらいの素養は必要だったというのである。
現代に置き換えると、「経営者はゴルフくらい嗜んでおかないといけない」ということになるだろうか。機能性の世界に、ずいぶんと遊びが食い込んでいる感覚があるが、それが日本の伝統文化なのだろう。
伝統は、そのものを見ていても文化が分からない。
たぶん「文化」は、不必要な遊びの中から生まれてくるものだと思っている。なぜなら、効率化とは無駄の”排除”が本質だからだ。器や家具、衣服の装飾などは排除の対象になるだろう。そうなれば、日本の多様で豊かな食器はすべて画一化されるし、蒔絵も消滅する。全員が同じ形の家に住み同じ衣装を身にまとうように慣れば、社会の無駄は小さくなっていく。
私達が感覚的に「良いなぁ」と思っていて、「大切だ」「守りたい」と言っている文化は、遊びそのものだと言って良い。私が料理業界に携わるようになって一番初めにたどり着いたのはここ。「料理は遊び」である。
以前、「料理は遊びだ」と言ったら「じゃあ、そこに意味はないのか?」と言われたことがある。しかし、遊びだから意味がないのではない。むしろ逆で、”意味”の本質は遊びの部分にこそ宿るのだと思う。意味とは”思いを味わう”ことだと思っていて、機能には思いが宿らないからだ。だからこそ、遊びを遊びとして長い間追求してきた結果、伝統文化になったのだろう。
料理名に「しぐれ」「なると」「たつたがわ」というものがある。「しぐれ」は時雨と書いて、晩秋の降ったり止んだりする一時的な雨を意味している。口の中で甘さやしょっぱさ、旨味、生姜の代わりなどの風味が口の中で通り過ぎていく様子を時雨に見立てたのが「しぐれ煮」だと伝えられる。(諸説あり)
また、「たつたがわ」は、古くから紅葉の名所として歌枕になっている竜田川のことだ。百人一首で学んだ人もいるかも知れない。料理としての竜田川は、食材を紅葉の形に切って梅酢につけたもののこと。これ以上ないほどわかりやすい「遊び」であり、文化だ。今でも竜田揚げという名前が知られるが、醤油に漬け込んで赤く染まった魚や鶏肉を紅葉に見立てたことから名付けられた。
こうしたことは、料理だけを見ていてもわからない。料理の味や作り方、その素材の善し悪しはわかるようになるかもしれないけれど、それは技や知識だ。文化を読み解くには、その外側に目を向ける必要がある。
屏風や軸、器に描かれた絵も、やはりそれだけを見ていてもわからない。源氏物語や古今和歌集などの素養があって、はじめてそこに豊かな物語が浮かんでくるのだ。ここで詳しく語ることはしないが、徳川美術館に収蔵されている「初音の調度」などは、文化と技、デザイン、物語の素晴らしい融合だろう。
遊びから発展した文化は、それが「どんな遊びなのか」を知らなければわからない。いや、もちろん知らなくても楽しむことは出来るし、知らないからダメだと言いたいわけではない。知って分かればもっとずっと面白い。そういう世界があるということだ。遊びとはそういうものだから。
遊びを鑑賞する作法
作法などと言うと仰々しい。もっと簡単に言えば、ルールを知っておくと面白い、ということだ。例えばサッカー観戦だ。特に細かいルールなど知らなくても、「ボールがゴールに入ったら得点となり得点を競うゲームだ」「手を使ってはならない」ということさえ知っていれば楽しむことは出来る。知らなくても、見ているうちにわかると思うが。ただ、オフサイドがわかるようになると、もう少し面白さが増してくる。というようなことだ。
少しテクニックの難しさがわかるようになると、ちょっとしたプレーに感動するようになる。さらに戦術までわかるようになると、俄然ゲームが面白くなる。それぞれのチームがどんな戦術を持っていて、互いに駆け引きをしているのがわかるからだ。
チームの歴史を知ると胸が熱くなるかもしれない。例えば弱かったチームが少しずつ強くなっていった様子だとか、そこで苦労した選手やチーム関係者のこと、応援する街の人達のサポートなどを知る、といったことだ。
おそらく、遊び深く楽しんでいる人たちは無意識にこれをやっている。「詳しくなったら面白くなってきた」という感覚は、きっと多くの人が一度や二度は感じたことがあるだろう。日本の伝統的文化は、こうした「遊びを深く遊び尽くす」感性が連なってきたものなのだろう。
少し話は逸れるが、中学生の頃社会の教科書に「好色一代男」という書物の名前が載っていた。ご存知、井原西鶴の”ポルノ小説”である。当時は気が付かなかったが、井原西鶴が文化人枠で教科書に載っているのか不思議だと思うようになった。最近になって知ったのだけれど、好色一代男は源氏物語をベースに、随所で古典文学をパロディ化しているのだそうだ。俗世界と雅な世界を重ね合わせるという、かなりハイレベルな遊びをしていて、だからこそそれが江戸の庶民に受けたのだそうだ。書く方も凄いが、それを読んで笑っている読者も遊びつくしている。
漫画ワンピースに登場する女ヶ島は、もしかしたら好色一代男の最終章に描かれる女護ヶ島だろうか。現代でまで遊びが繋がっているのが面白い。
今日も読んでいただきありがとうございます。
江戸時代は旅行が難しかったからね。その代わりに、日常生活に遊びの要素を取り入れたり、物語の世界で遊びを生み出したりしたのかもしれない。そうそう。ヨハン・ホイジンガによる遊びの定義では、自発性や虚構性、秩序なんかが必要だってことになっている。「やりたい!」という気持ちと、日常生活と切り離された空間と、厳密な独自ルール。そう考えると、日常生活に遊びを持ち込んだ人たちは、「しょせん、この世は仮初め」みたいな感覚を持っていたのかも。道教的と言うか仏教的と言うか。なんとも興味深い話だ。
遊びをせんとや生まれけむ