日本有数の茶産地として知られる牧ノ原台地に丸尾原という地名がある。現在では茶園が広がるこの地も、江戸時代までは木々が生い茂っていた。
明治3年(1870年)。大井川の渡し船が解禁される。それまで、大井川は橋をかけるどころか渡し船も禁止されていて、川越人足が人力で旅人を向こう岸に運んでいたのだが、この解禁によって人足たちは職を失うことになった。大量の失業者を目の当たりにして、金谷宿の醤油屋だった仲田源蔵は私財を投じて彼らを援助。しかしそれも限界がある。そこで、東京まで出かけ人足の救済を直訴したのだ。まだ江戸の気風が色濃い時代のこと。直訴は文字通り命がけの行為であった。捕らえられ拷問を受けるも、後に訴えが認められ、ついには政府によって人足の救済事業が開始されることになった。それが、牧ノ原茶園の開墾である。
茶園開拓の現場
政府は相応の資金を用意し、牧之原周辺の豪農に事業の世話役を依頼した。そのうちの一人、丸尾文六は34人の人足を引き受けることになった。静岡藩からは人足一人あたり10両の支度金が世話人に支給され、その中から準備金として3両ずつを配った。残りの支度金を着服したわけではない。荒野の開墾には巨額の資金を投じる必要があって、不足分は丸尾自身の資金で賄っていたのだ。
クワなど使ったことのない人足たちである。中には開墾を諦める者も現れ、19人が離脱。彼らには残りの7両が手渡され、その資金を元手に他の仕事を始めることとされた。強い意志を持った15人と、後に他の組から加わった5人が加わり、20人となった丸尾組によって開墾が行われたのである。
雑木を切り倒し、根を掘り起こし、土を刻み、石をふるい落として整地していく。そんな地道な作業を繰り返し、やっと3年目になってわずかな茶を製茶出来るようになった。しかし、また一つの課題に突き当たる。丸尾は栽培農家だったから、製茶作業に関してはほとんど経験がなかったのだ。そこで、製茶作業を学ぶために義弟を千葉県の茶園に派遣。自らは、農学者の津田仙(津田梅子の父)を頼り狭山で製茶方法や輸出について学んだのだった。
明治12年(1879年)。横浜で第1回製茶共進会が開かれる。ここで、丸尾組は一等褒章を受章し、4年後に神戸で開催された第2回製茶共進会でも一等金杯を獲得。素人集団だった彼らは、全国有数の茶園を築いたのであった。
作った茶を届ける
幕末の開国で開かれた港は、長崎や横浜などの5港。その中で、茶の貿易港として最も取引量が多かったのは横浜港である。横浜では、日本の商人が外国商館に茶を売り、外国商館は茶を外国人向けに再製し(仕上げ)てアメリカへ送る。ここで取り扱われる茶のおよそ半分は静岡県産だったと言われている。
丸尾は、横浜にお茶を届けるために物流の整備に着手する。地元の天然港を整備し、港に至る横須賀街道を荷車や人力車が通りやすくするために砂利を敷いて舗装。街道の途中にある菊川にかかる橋も改修した。現代ならば行政主導になるような事業だが、これらすべてを民間企業が行ったのである。
丸尾は、大日本報徳社を創設した岡田佐平次から報徳仕法を学んでおり、それがこうした活動に結びついたのだろう。
港を整備したことによって地域の物資は港に集まるようになった。そこで東遠州の豪農たちに声をかけ資本を集めて蒸気船を購入。鴻益社(こうえきしゃ)を立ち上げて本格的な運送事業を開始したのである。
経済危機と農民の自立
順調に成長した茶産業は、経済的危機にさらされることになる。1881年から始まる、いわゆる松方デフレによる農産物の価格下落である。
明治時代に入って、殖産興業の旗印のもと政府は経済を牽引してきた。まだ日本銀行が存在していなかったから、経済の成長とともに各銀行が紙幣を増やしたことでインフレが起きていたのである。茶産業はこの恩恵を受けて経済的に成長してきた側面がある。
しかし、西南戦争をきっかけにインフレは加速。政府財政は危機に見舞われる。地価に応じた個人納税をベースにしていたことから、物の価格は上がる一方で税収は一定という状態になったのだ。そこで、大蔵大臣松方正義の主導でデフレ政策が取られたのである。
このデフレ政策によって、お茶の価格は大きく下落し茶農家の収入は減少。一方で、人件費や工場などの固定費は下がらないという状況が生まれる。物価の変動には順番があるのだ。このままでは、丸尾組が立ち行かなくなる。丸尾組が倒産すれば、それはそのままそこで働く農民たちが失業することになるのだ。元川越人足だった彼らを再び失業させるわけにはいかない。
そこで、丸尾は茶園の経営を大きく変える決断をする。農民たちを完全自営、または半分自営ということにしたのだ。現代風に言い換えれば、正社員を完全委託契約や半委託契約に切り替えて固定費の分散を図ったのである。正社員の場合は売上が減っても給料は支払わなければならないが、自営ならば自動的に農民の収入も減ることになる。というと、非人道的な判断のように見えるかもしれないが、そうではない。
まず第一に、丸尾組が潰れてしまえば農民も職を失うのだ。収入が減っても失業よりはマシである。もう一つのポイントは、彼らが農民であるということだ。土地を借りた小作農であるとは言え、土地があれば農作物を生み出すことが出来るのが彼らの強みである。金銭の多寡に関わらず、食べ物を作ることが出来るということは生存力が高いということ。商品作物と食料作物のバランスをとるには、小規模のほうが小回りがきくのである。
そして、丸尾は新体制に馴染むまでの7ヶ月間は農民たちに補助金を出すことにした。これは社内ベンチャーの独立支援金に相当する。
丸尾は、現代のフランチャイズで例えれば本部のような役割を担った。これに対して独立した農民はフランチャイジーとなる。茶園全体は維持されたまま、新しいプラットフォームへと移行したことになる。
結果として、川越人足の救済事業から始まった茶園開墾事業は、当初の計画の通り達成されたのだった。
直輸出への悲願
アメリカへの輸出が急成長する中、粗悪茶が出回る事態が発生する。アメリカでは「贋製茶輸入禁止条例」が成立し、日本茶の評判が下がり価格も下落することになった。こうした中、静岡県は粗悪茶の取り締まりを強化し、丸尾は茶業組合取締所の役員につくことになる。
一方で、貿易の利益を伸ばすため外国商館を通さない直接貿易の仕組みを構想してもいた。当時横浜には、外国商館への斡旋を専門とする問屋がいてマージンがかかっていたし、国際取引に不慣れな日本人は外国商館の言いなりとなってしまっていた実態があったのだ。他にも、外国商館の再製工場で粗悪茶を混ぜたり着色していたこともわかり、直接貿易の確立が重要だったのである。
国内の貿易商と協働してアメリカへの直接輸出を画策する中、紆余曲折を経て岡田良一郎らの協力を得て横浜に富士商会(後に富士製茶株式会社へ改称)を結成。サンフランシスコに支店を構え、現地で茶と雑貨を販売する店を構え自力での輸出事業を推し進めていったのである。サンフランシスコ支店の主任となった安田七郎は20代後半、横浜本社支配人となった原崎は30歳になったばかりという、若い力による挑戦だった。
明治22年(1889年)には新橋〜神戸を東海道線が結ぶようになると、富士製茶は東海道線の堀ノ内駅(現在の菊川駅)近くに本社と工場を設置。お茶は東海道線で横浜へと運ばれるようになった。丸尾が設立した蒸気船による輸送会社は役目を終えて解散する。後に、製茶機械の製造を担った松下幸作によって、堀之内駅から丸尾の故郷である池新田を馬車鉄道(堀之内軌道、1921年)がつなぎ、茶の輸送網を発達させることになる。
鉄道の発達によって大打撃を受けたのは港である。特に清水港は古くから海運で栄えた港町であり、漁港へと切り替えた他の港町と比べて急激な衰退を余儀なくされた。東海道線の開通と同時に、清水の回漕業者鈴木与平や天野九右衛門や清水町長らが、特別貿易港指定への請願運動を開始。これに静岡の茶業界が加わり、地元が一体となって清水港の開港にむけて本格的な運動を展開した。そして、明治32年(1899年)、清水は特別貿易港の指定を受け、直輸出実現に向けて大きく前進したのである。
しかし、清水港には再製(仕上げ)工場が無かったために、清水港に茶貿易船が入港することはなく、依然として横浜港から輸出される状況が続いた。静岡県茶業組合連合会議所の海野孝三郎は静岡市に製茶再製所を誘致。更に、日本郵船株式会社にも粘り強く交渉を続け、清水港への入港を訴えた。
そしてついに、明治39年(1906年)5月、日本郵船の神奈川丸が清水港に入港。これを皮切りに、清水港の茶輸出は急成長していく。明治41年(1908年)には、静岡市内の茶町から清水港をつなぐ静岡鉄道が開通し、茶の輸出体制が整えられていった。このインフラによって県外の茶産地からも茶葉が集まるようになり、明治42年には横浜港を抜いて日本一の茶貿易港へと成長。大正6年(1917年)には、全国茶輸出高の77%を占める「お茶の港」となったのである。
生産量だけではない、産地の強さ
全国には様々な名産地がある。質の高さや産出量の多さは、名産地を名乗る要素ではある。しかし、それだけではないことが、今回のエピソードで伝わるだろうか。産業そのものを育て、人を育て、それらがスムーズに活躍できるようにインフラを整えること。それらがすべて整ってこそ、日本を代表する産地と呼べるのではないだろうか。
茶試験場、ミュージアム、製茶機械、茶農業機械、それらのパーツ、茶の梱包資材。その他あらゆる「茶に関わるヒト・モノ・コト」が、静岡にはすべて揃っている。そして、それらは一朝一夕で出来ることではなく、長い年月をかけて先人たちが積み上げてきたものなのだ。
その産業に直接関わっていなくても、紡がれた人の営みの厚みに敬意を払わずにはいられない。そして、同郷人として、誇らしい気持ちになる。