たべものラジオを始めてから、ずいぶんと勉強熱心になったもんだ。まさか、あんなにも苦手教科だった歴史を勉強するのがこんなに楽しいとはね。どうなるかわからないもんだ。
先月、離れて暮らしている娘が2週間ほど滞在していた。彼女は高校3年生、つまり受験生。彼女の持っていた世界史の過去問題がスラスラと回答できることに一番びっくりしたのはぼく自身。高校時代には赤点スレスレだったのになあ。逆に、得意だった数学がほとんど解けない。数列って言われて、「聞いたことあるけど何だっけ?」となり、シグマを使うやつだよって言われて「あったあった、そういうの」となり、で結局概念を思い出した。もちろん、1問も解けるわけがないんだけどね。
最近、あんまり結論を急がないようになったかな。いや、一旦結論づけるんだけどね。それを決着したものとしない。とりあえずは、こういうことだと理解しておこう。だけど、それが決着じゃないんだろうなって保留するの。なんとなく確立で捉えておく感じかな。で、追加の情報をインプットしたら、その都度修正していくの。
これ、言語化難しいなあ。これが良いのか悪いのかわからないのだけど、ふわっとした知識として記憶の何処かに漂わせておくイメージなんだよね。図書館みたいにジャンルごとに整理しないで、ふわふわと漂わせる感覚。
でね。それらにちょっと色を付けておくの。タグ付けの方が良いかな。最初に扱った時に捉えた結論とか思考の過程に合わせて、いろいろなタグを付けておく。他の何かと連結するのかどうかわからないけれど、なんとなくぼんやりと置いておく。これ、部屋の片付けとは全く逆の発想なんだよね。
良い方向に働くのかどうかは全くわからない。けれども、ぼくにとってはこれが都合が良さそうなんだ。ま、今のところね。全然違うジャンルの事柄が繋がるかもしれない。そんな余裕を持たせている感じ。ただ、しょっちゅう誤読するんだよね。変なつなぎ方をしちゃう。初歩的なところでは、新しくインプットした事実を誤認していて、違うものと繋いじゃうとか。あとは、タグ付けが変だとか。繋ぐ相手が変だとか。まぁ、いろんなバグが発生する。そりゃそうだ。ぼくの脳みその記憶容量には限界がある。そもそもそんなに大容量じゃないしね。
知人からは物知りだと言われることもあるけれど、そうでもない。ホントに忘れちゃうんだよね。しょうがないからいつもノートを持っている。ぼくのノートは「外付けハードディスク」なんて呼ばれてたな。前の職場の話だ。
そうそう。この記憶容量の少なさが面白いんだ。全部を覚えておくのが難しいから、結局記憶に残っているのはインデックスや概略だ。なんとなく知っているようなこと。くらいのもので、出典なんてすっかり忘れちゃう。下手をすると、出典が自分の過去のエッセイだという恥ずかしいこともある。
で、これを繋いじゃうわけでしょ。そりゃバグが発生するのは当然なのだ。ところが、この誤読というバグが時折面白い発想になることがあるんだよね。いやあ、何がおきるかわからない。だいたい、今までにない新しい解釈って誤読から始まるんじゃないかな。それは言い過ぎか。でも、バグから生まれる発想は確実にある。と思っているんだ。もしかしたら、この記憶容量の少なさは新しい解釈に出会うために設計されたものなんじゃないかとすら感じることもある。こういうのを「意味のないところに意味づけする」って言うのか。
一旦「そういうものかな」という理解をしておく。それをたくさん集める。もう雑多に集める。集めているうちに間違いに気がついたり、もう少し深い理解に連れて行ってくれたりする。こういうのの繰り返し。ひとつずつ積み上げてどこかにたどり着くというよりも、あちこち雑多に集めている。
なんだろうな。雑な絵を描くのと似ているかもしれない。絵の具をどんどん塗り重ねていく。バラバラにあちこちに絵の具を乗せていく。そのうちに何かが現れたように見えることもあるし、まだ何も色が塗られていない空間に気がつくこともあるし。そういう感じの学び方が楽しいんだよね。今は。
今日も読んでくれてありがとうございます。これ、きっと受験には使えないんだろうね。効率悪いだろうし。それに、専門分野を深く追求するのも向いていないのかもしれない。ま、学者じゃないし、受験生でもないのだ。楽しく学ぶことにする。もしかしたら、この横断的な視点がどこかで役に立つこともあるかもしれないしね。そういうことだって思っておこう。