プレゼンテーションとか、スピーチにはいくつかの型がある。ぼくが使うのは主に3つで、上手く使いこなせているかというと、それはちょっと疑問なのだけれど、ケース・バイ・ケースで選んではいるつもりだ。
先日ゆる言語学ラジオで紹介されていた話で、文化圏によって「論理的であるかどうか」の基準が異なると言っていた。それは初耳だったので、非常に面白かったし、引用されていた本も読んでみたいものだ。聞きかじりではあるけれど、ぼくなりに過去に実践してきたこともあるので、思ったことを書き出してみようと思う。
冒頭に書いたように、3つのパターンを意識的に使い分けしている。
一つは、結論から話すという、通称PRP法というやつだ。強く主張したい時などにはうってつけで、営業職のころは商談などで多用していたかな。なにしろ、あんまり他の意見を投げ込まれると売れるものも売れなくなるので、ある程度ははっきりと主張したほうが良い。短い時間で済むのもありがたい。
ただ、正直なところあまり好きなパターンではない。なぜなら、このパターンは「これを良し」とする共通理解が無いと成立しないからだ。感情よりも「短期間の結果を求める数学的な合理性」が良いという世界でのみ成立する。こんなものを、田舎の町内会で展開しようものなら、かえって話はこじれて進むものも進まなくなってしまう。
そこで出番なのが、物語である。ストーリーテリングと言い換えても良い。「こないだこんなことがあってね、であの人が言ってたんだけどさ。でね、ぼくはこう思ったのよ。そしたらさ」というのは極端だけれど、案外こういう話のほうが伝わることも多い。
それはなぜか。
人間は感情で動くものだからだ。だいたい、プレゼンテーションなどというものは、相手に伝わったかどうかがゴールではない。伝わった結果、行動に移してもらえたかどうかが目的なのだ。行動は論理的思考だけで成立するものじゃなくて、多くの場合は感情が伴う。アイツのことは気に入っているとか、情熱に感化されたとか、共感したという感情が必要。その点においては、実に日本的な起承転結の物語がよく機能する。
更に付け加えるなら、情報をインプットするときにも役に立つ。個人的な好みではあるのだけれど、勉強したことを理解しようとするときには、「流れ」と「構造」で捉えようとしている。後者は本当に人によって感覚が違うのだろうけれど、前者は比較的多くの人に受け入れられていると思う。それはぼくらが日本人だからなのかもしれないが。だから、伝え方に悩んだときには桃太郎の紙芝居を思い浮かべるようにする。
かつてぼくが勝手にやっていたのがけれど、紙芝居を使ったトレーニングはけっこう面白くて、後輩や部下にも伝えていたことがある。順番通りに情緒的に話したり、順番通りなのだけれど要点だけを話したり、シャッフルしながら話し方を変えていったりする。そのたびに、伝え方のトレーニングになるのだ。
いつだったか。ぼくが作った商談資料をもとに上司が商談を行ったときのことだ。移動中にサラッと見ただけだったはずなのに、商談が始まった途端に「まず4ページ目を見てください」と上司が切り出したときには驚いた。ぼくが作った資料の順番などお構いなしに、その場でシャフルされていく資料。それでいて一連の流れが成立しているのだ。あとから聞いてみると、商談前の先方との雑談を経て、入れ替えたのだという。どんな話し方が刺さるかは状況次第ということだ。
3つめは、相反する意見を均等に提案するパターン。当該番組では弁証法的と表現していたけれど、まさにそのままだ。主に、チーム内の会議や相談を持ちかける場合にはこれが多かった。例えば、上司に判断を仰ぎたいときには完全にフラットに提案してみる。そのうえで自分の意見を乗せていく。ディスカッションをしていくうちに、上司や他の誰かが、別のパターンを提案することもあるだろう。そうすると、新たなアイデアは上司の発案になるから、承認を取る必要がなくなるなどというおまけが付いてくることも、たまにある。
大枠のパターンがこんな感じで、中身を構成する要素を分解して、要素ごとにネタをいくつも用意しておく。一見複雑なようだけれど、一度慣れてしまうといつでも引き出すことが出来るようになるので、商談などのときには便利なことこのうえない。というのが、前職時代のノウハウだったかな。今はもう、めんどくさいので感覚に任せて喋るようになっちゃったけど。
今日も読んでいただきありがとうございます。感想というか、昔を思い出しただけっていう話ね。そうだな。たべものラジオはストーリーテリングを中心に構成しているかなぁ。直感的な感覚なんだけど、そのほうが後で答え合わせしたときにアハ体験があるような気がしてるんだよね。最初に結論言っちゃったらつまらないじゃんね。