ゴミを拾って歩く。まぁ、普段歩いていても気がつけば、気になれば拾うということはあるけれど、あえて意識してゴミを拾おうとしているわけではない。下を見ながら歩くなんてことがほとんどないからね。なかなかゴミの存在に気が付かない。
先日、掛川の商店街で納涼祭があった。毎年のことだけれど、掛川観光協会は総合案内を運営していて、納涼祭が終われば使用したテントや机などを撤収したあとは、ゴミ袋を抱えて歩く。数百メートルの道を往復するのだ。
人にぶつからないように気をつけながら雑踏の中を進んでいく。暗がりの路面に視線をすべらせては、異物を探していく。プラスチックのカップ、ストロー、何かの包装に使われていた紙やビニール袋、割り箸、竹串。流石に人混みの真ん中でタバコを吸う人はいなかったようだけれど、それでも歩道のすみには煙草の吸殻が転がっている。
まつりが終わった帰り道。ゴミを手に持ったまま歩く人達にも声をかけて回収していく。時々、「ゴミ拾いありがとうございます」「頑張ってください」などと声をかけられたり、中には近くに落ちていたゴミを拾って届けてくれる人がいたりして、ちょっと嬉しくもなる。往復して戻ってくる頃には40リットルのゴミ袋がいっぱいになっていた。数人で歩いているから、なかなかの量になっているはずだ。
色んな人がいる。
雑踏の真ん中で友人同士で円を作って語らっている人。その足元には、それぞれにゴミが置かれている。誰かに見られている意識がないのだろう。そのまま立ち去ろうとする人が半分、その行為に躊躇する人が半分。ぼくが近づいていくと、躊躇した人はほっとした表情でゴミを拾って差し出してくるし、残りの半分はバツが悪そうにしている。
シャッターのおりた商店の前に座り込む二人が道の反対側に見えた。缶ビールを片手にタバコを吸っているその煙がここまでやってくる。手元には空の容器が入ったビニール袋が見えるし、そこにゴミを入れている仕草が見えた。まだ食べ物も残っているようだから、声をかけるのも悪いと思って通り過ぎる。ほとんどの出店が撤収した後になってその場所を訪れると、散らばった煙草の吸殻とゴミの入った袋が置き去りになっていた。
そうかと思えば、妙にきれいになっている一角もあった。そこは、30分ほど前まで数人の男女がビールを片手にたむろしていた場所だ。さっき見たときは、たこ焼きだとか焼きそばだとかの容器が足元にあったはずだが、なにもない。それどころか周囲のゴミもきれいサッパリ。
オリンピックやワールドカップなどの世界大会があるたびに、日本人選手や応援団がゴミ拾いをしている姿が海外で話題になる。道徳的だとか、手本となる行為だと報じられる。
なんとなく、清浄さに対する意識が常にあるのじゃないかと思うんだ。組織的に行うわけじゃなくても、そこに異物があるのが気になる。本来清浄な空間なはずなのに、異物があると気になってしまう。奥歯に物が挟まって気になる。という程度に気になってしまう。
気がついてしまうと気になってしまう。気になってしまうと片付けたくなるのだけれど、行動することにためらいがある。拾ったゴミの処理に困るということもある。だから、気が付かないというフィルターがかかることもあるのかもしれない。そこには後ろめたさがあるのだけれど、それは培われた世界観、美意識のようなものがあるのだろう。などということをぼんやりと考えながら歩いていく。
そもそも気にならない環境ではある。ゴミが落ちているのが当たり前の場所では、ゴミが落ちていることに違和感がないといのは、割れ窓理論というやつだが。混み合った雑踏では、ほとんど道路が見えないから、ゴミが落ちていることに気が付かないだろうな。
日頃の生活の中で、ちょっとだけ「清浄さ」「清らかさ」に意識をおいておく。「美しさ」でもいいかな。そうすると、ゴミが落ちているとか、揃っていないとか、中途半端に扉が空いているとか、いろんなものに自動的に気がつく。気がついた後にどんな行動をするかは別の話だけれど、気がつくことができるという事自体はセンサーが磨かれるということ。と思っていると、それはそれで良さそうではある。
今日も読んでいただきありがとうございます。暑かったなぁ。直前まで仕事をしていたから、総合案内に到着したのは終了の15分前。納涼祭っぽいことといったら何も無いし、一口もアルコールを口にしていない。だから、余計にいろんなことを考えてしまうのかもしれない。まぁ、わかりやすく「誰かの役に立っている」という感覚は、気持ちが良いよね。