アメリカで"ブルーカラーミリオネア”現象が起きているらしい。
AIの登場で、知的労働領域が急速に自動化・効率化され始めた。その結果、いわゆるホワイトカラーの仕事はAIに代替され、人間の出番が減っている。その一方で、フィジカル領域はAIの導入が進んでいない。ということで、相対的にブルーカラーの仕事のほうが価値が高まっていく。
「早晩そうなるだろうな。」と言われていたことが早くも現実になったわけだ。
知的労働と肉体労働ってなんだろう
歴史を振り返ってみれば、人類はずっと肉体労働が中心の社会で暮らしてきた。もちろん、一部には知的労働を担う人たちもいたけれど、割合で言えば圧倒的に肉体労働が多い。食料、衣料、家具、その他多くの「ものづくり」が生活の基盤なのだ。
考えてみれば当たり前の話で、経済っていうのは「生きるための活動」が基本。それを、社会というチームで効率化していったら産業が分かれていき、専門的な技や知見が構築されて発展したわけだ。
チームで活動するときには、全体を俯瞰してバランスを取る人が必要だ。スポーツで言えば、監督やコーチ。試合には出ないけれど、だからこそ、全体が見える。もちろん、ただ“物理的に見えている”だけではダメだ。そのスポーツに対する深い造詣が必要。当然だけど、判断するためには知識が必要だし、そもそも知識がなければ見るべきポイントがわからない。
人類にとって初期型の社会で、長老と呼ばれる人はこうした知的労働を行っていたのかもしれない。想像だけど、そのほとんどは自らもフィジカル領域で活動した経験があるだろう。元サッカー選手が監督としてチームを率いることはよく聞く話だ。ちょっと大きな料亭やホテルの厨房では、料理長が直接調理を行う機会は少なく、監督やデザイナーの仕事が中心なのだけれど、やはり一定以上の料理技術や知見を現場で培った人がそのポジションに就くのが普通だ。
“知的労働領域が急速に自動化・効率化”したという話だけれど、上記のような役割はAIで代替される可能性は低い気がする。対人関係は身体感覚が伴う。簡単に言えば、感情が強く関わっている。そんな分野をAIが担うようになれるかというと、現時点では厳しい。
それに、AIは身体を持っていない。「あったかい」や「おいしい」という感覚を数値化することは出来ても、そのとき人が感じる「いいなぁ」という気持ちはわからないのだ。
定量的なデータも大切だけど、社会っていうのはこうした感覚によって支えられてきた部分も大きいんじゃないかと思う。
テクノロジーに代替される仕事
産業革命が始まった頃、工場は機械化が進んだ。たくさんの商品を作るためには、たくさんの時間を投下するか生産性を高めるかの2つ。とマルクスの資本論で述べられているらしい。より少ない人員で、より少ない時間で大量に生産するための機械、というわけだ。
この時代は、フィジカル領域の効率化が起きた。で、今度は知識領域の効率化である。
そういえば、平成くらいまでは企業の各部署に資料係のような人がいた。当時、資料といえば紙。ファイルに綴じて、棚に並べ、必要なときに即座に取り出せる人は、とても重宝した。図書館の司書のような特殊技能である。今では、資料はネットワーク上に保管されていて、キーワード検索をすれば適切に引き出すことができる。もしかしたら、社内専用のAIが構築されていて、質問に答えてくれるようになっているのかもしれない。
たぶん、代替されるのは比較的シンプルな知識領域の労働なのだろう。フィジカル領域でいえば、かつて人力で行っていた機織りや、臼でついていた脱穀に該当するもの。調理場だったら、薪や炭を巧みに操って火力をコントロールしていたが、それも容易になった。ガスコンロは火力調整を簡単にしてくれたし、AIが登場してからは火力調整が自動で行われる家電へと発展した。もう、そこに人が意識を向ける必要がないという時代が目前にせまっている。
「テクノロジーに代替される知的労働」を考えるのに、一旦フィジカル領域に置き換えたほうが理解しやすいというのも皮肉なものだ。それくらい、フィジカル領域の自動化・効率化が先行していたということか。
人とテクノロジーの知性
“知性”は、言語化できるものばかりじゃない。というのが持論だ。言語化できるとか、言語を使って理性的に考えるというのは、人間の持つ知性の一部だと思っている。音楽、絵や造形、調理、運動など、どうしても左脳では完結しない領域があるだろう。たとえ言葉で説明できなくても、一流の料理人の煮物は格別に美味しいし、一流の寿司職人の寿司もまた同様だ。
それでも、テクニックだけならばあらゆるテクノロジーを使えば、再現可能かもしれない。今のところおそろしいほどの資金を必要とするだろうけど、やってやれないことはない。ただ、感情が含まれないのだ。結局のところ、ものづくりの多くは対人サービス。互いに感情のある生き物で、その交流を含んだ“社会というチーム”だ。その領域では、人間にしか持ち得ない知性があるだろうと思っている。
サッカーというスポーツを、“勝つために”、“面白くするために”テクノロジーを導入した結果、何が起こるだろう。完璧な精度を持ったロボットが完璧な戦術で勝ったとして、嬉しいとか楽しいという感情は湧いてくるのだろうか。
感情を含んだ豊かさ。という側面で言えば、こういうことはAIに代替されない「人間臭い知性」が価値を持つかもしれない。
人間の身体は恐ろしく優秀な労働力だ。
ぼくの指は、1mm以下の厚みを感じ取れる。
正確な数字で測れなくても「ある」とわかる。
それが人間の感覚というものだ。
さらに、訓練を積めば驚くほどのうすさで大根を剥いたり、破れないギリギリの薄さでフグの刺身を引くことが出来るようになる。
これをテクノロジーで再現しようと思ったら、かなり大変だ。そして、それが実現したところで、それ以外の作業には使えない。ぼくならば、焼いたり揚げたり混ぜたり出来るし、こうして文章を書くことだって出来る。キーボードを叩いて文字入力もできれば、筆も使えるし、喋ることも出来る。
横断的かつ汎用性の高い労働力。と考えると、人間ほど優秀な存在はない。それらを“適当に”混ぜ合わせて“適当”に感情とともに解釈してしまう。これも労働力としての人の価値だろう。
テクノロジーは、主に「一点集中深堀り」が得意だ。ある一点では、人間では不可能な精度で検知したり作業することができる。また、疲れも知らずに止まること無く労働することで、大量の作業をこなすことができる。
両者の特徴が、どの分野でどのように活躍するのか。結局のところ、パズルのような適材適所が進むことになるのだろう。今、ちょうど劇的な変化のタイミングにあって、そのひずみあわせて役割調整をし始めるところなのかもしれない。
フィジカル領域という、知性労働の価値
ちょうどいい機会だから、職人や食品製造の仕事に、もう少し光が当たると良い。
いまだに、原価比率とか作業時間だけで商品の価値を判断されることがあってさ。「山菜の天ぷらなんて、自分で取ってきたならほとんど原価ゼロじゃん。手間もかからないし。」とか言われちゃうわけ。山の手入れや収穫にかかるコストや、抜きん出ておいしく天ぷらを揚げられるようになるまでの訓練とか、このあたりが無視されちゃうんだよ。
ぼくら料理人はマシなほうで、食品製造なんて、その深い知見は理解されていないような気がするんだ。だから、低賃金業界になっているんじゃないかな。
今日も読んでいただきありがとうございます。
二項対立にしたほうがわかりやすいから、対比してみたんだけどね。本来はきれいに分類できる話じゃないんだろうな。時代とともに「誰でも出来る=低賃金」の捉え方が変化していて、いつもなら“なだらかな変化”なんだけど、AIの登場で急激な変化が置きている。そんなところか。
ふーむ。これは、また新たな「パラダイムシフト(価値観の変化)」が起きる気がする。どんな仕事の、どんな働き方が「あこがれ」になるんだろうな。