「大人になりたくない」と「早く大人になりたい」という気持ちを考えたとき、あなたはどちらのタイプだろうかだろうか。ぼく自身、既に大人になってしまっているから、過去の自分を振り返ることしかできない。
確か、そのどちらも言ったことがあるような気がしている。
大人になりたくないと感じていたのは、周囲の大人を見ていて感じたことだ。言いたいことが言えない。それは、発言力がないとか、気が弱いとか、そんな理由ではないだろう。場の空気を読んで、ある種迎合する必要性があるために、本心とは違うことを言う。そんな光景を何度となく目の当たりにしていたし、ドラマや小説の中にも登場した。
「周りの人たちはこう思っているはずだ」ということを、推察する。そして、それに従って「みんなが言いそうなこと」を言葉にして発する。これが、おそらく多くの日本人がやっている行動なのではないだろうか。もしかしたら、みんなからよく思われたいという気持ちもあるかもしれないし、逆に悪く思われたくないという気持ちもあるかもしれない。
悪く思われたくないというのは、どういうことだろうか。本当に悪いのではなく、変な人、つまり変わっていると思われたくないということに繋がっているような気がしている。変わっている人は、その集団の中では異物になる。異物があることで、その集団が乱されているように感じてしまう。それを察してしまうがために、本心とは違うことを言ってしまうのかもしれない。
そして、困ったことに、上記のような「変わった人」は自分だけだと思っている。そうではなくて、ほとんどの人が「変わった人」である可能性もあるのだ。マジョリティではなくても、3割程度の人が同様のことを感じているとしたら、もはやそれは一大勢力となりうる。集団の中の異物ではない。
このようなことを、子供は敏感に察している。もちろん多くの子供達は、構造的に理解して言語化出来るわけではないだろう。しかし、こうしたことを直感的に察知することは出来るのだ。非認知能力というのは、あるけれど数値として測れない能力だという。ただ、数値として計測できないものは「ない」と認識してしまうところが大きな誤解である。
こうして考えてみると、かつて「大人になりたくない」と感じていた理由は、社会に定着しているステレオタイプの「大人像」があるからではないか、という仮説が浮かんでくる。日本社会において、自分という個人よりも集団の真ん中にある虚無な空間に合わせることが重要視されているのかもしれない。おとなになるということは、嫌なこと面倒なことを受け入れて調節することが出来ることだ。そんな考え方である。
さて、一方で「早く大人になりたい」と感じていた自分もいる。一体、なにがその根幹にあるのだろうか。ということを考えてみると、不完全性が原因であると言えるかもしれない。「まだ子供だから」という言葉を聞いたり言ったりしたことがあるだろう。「まだ子供だから」というのは、半人前とか未成熟なといった意味が含まれているように思える。「だから〇〇をしてはいけない」「だからしょうがない」。制限や、許容の根拠になるわけだ。
これに対して、「許容なんてされなくてもいいから、早く制限から開放されたい」という気持ちがあった。どこかに幻想があるのだろうが、大人になればもっと自由なのだと思っていた。少なくとも、今よりは制限がないと。大人とは、少年時代のぼくにとって自由の象徴でもあったのである。
両方を並べてみると、不可思議な矛盾があることがわかる。序文の命題そのものが、全く反対のことを言っているのだから、それを支える背景というものも反対のことになる。つまり、「大人になると自由がなくなる」と「大人になれば自由になれる」である。
さらに不思議なことに、何人かの友人に聞くと、やはり同じように両方を感じたことがるというのだ。おそらく、そのどちらもが真実で、少年の精神の中に共存しうる思考なのだろう。
大人になった現在、ストレスの要因は「不自由さ」と「自由さ」の両方であるのかもしれないと考えている。思い通りにならない不自由さは、人間関係のストレスの原因となる。一方で、自己責任の中で自由を与えられることを持て余して、自分の頭で思考することを放棄することがある。自由を扱いなれていないせいで、持て余しているのかもしれない。
これらのバランスを取って、折り合いをつけることが大人であるということなのだろうか。
今日も読んでくれてありがとうございます。ぼくは、自由であることのほうが心地よいと感じている。言いたいことを言える自由、良いと思ったことを行動できる自由。不完全な部分を誰かに補ってもらう自由。失敗する自由。そういう社会のほうが、ぼくにとっては気持ちが良いんだよね。許容されないとか、野垂れ死ぬのも自由の範疇として、「大人になりたい」と持っている子供時代のほうが、なんだか夢があるように思えるんだ。