「道徳」をちゃんと説明できる人になりたい。 2022年6月29日

静岡県掛川市は報徳の町である。といっても、ピンと来ない人も多いだろう。報徳というのは、二宮金次郎が説いた思想のことだ。さすがに、日本人で二宮金次郎を知らない人は少ないだろう。日本中の小学校に銅像が建てられている。薪を背負って本を読んでいるあの少年である。

二宮金次郎は、小田原藩の農民の出身である。その人生の活躍の場は、関東近郊に限られている。だから、遠く遠江掛川には縁もゆかりも無いはずなのだ。けれども、掛川には大日本報徳社がある。

実は、日本各地に報徳社という組織が存在している。報徳の教えを学び広め、社会貢献するという団体である。そして、その数だけ報徳社という活動拠点が存在するのだ。その中で、唯一本社と呼ばれる場所がある。それが、掛川にある大日本報徳社なのだ。この大日本報徳社を起こしたのは、岡田佐平次、良一郎親子である。実はこの二人も二宮金次郎に会ったことがない。二宮金次郎の弟子から報徳思想を学んで感銘を受けた佐平次が、その思想を元に農村の発展を考えた。学んで実践し、地元のみんなで協力しあって町をより良くしていこうと。そして息子と一緒に報徳社という社を作ったのだ。

現在の感覚で見ると、大仰な感じがする。でも、実際のところは知り合いがみんなで集まって、佐平次や良一郎が学んが事を教えたり、一緒に本を読んで学びを深めたりする場所。一種の寄り合い所みたいな感覚だったそうだ。現代風に言えばサロンかな。どうだろう。

この報徳社の正門の両側には、それぞれに看板がかかっている。道徳と経済。

これらを両輪で回しながら、バランスをとって物事に当たることが肝要だというのが金次郎の教え。まぁ、ここでそれを解説してもしきれるものじゃないし、まだまだ勉強中だし。ちゃんと知りたい人がいたら、報徳社で学ぶのが良い。ちなみに、概要をつかむ意味では内村鑑三の「代表的日本人」がわかりやすいかな。個人の感想ね。

ところで、道徳ってわかっているようでわからない言葉だよね。小学校の授業にも道徳があるけれど、一体何を教えるというのだ。ちゃんと言語化されているのかな。どうなんだろう。気になったら調べるのがいつものことだけど、それも興がない。ひとつ、いろいろと考えてみることにしよう。

こういう熟語について考えるときは、それぞれの漢字の意味するところを探っていく。いつものパターンだけど、だいたいうまくいくことが多いからね。明治以降の言葉だと、あんまりうまくいかない場合があるけれど古い言葉ならだいたいいける。特に中国古典に由来する言葉の場合はね。といっても、道徳という熟語が中国古典由来なのかは知らないけど。まぁ、論語とかに使われそうな言葉だから、古いと想定してみる。

道で思いつくのは、やっぱり老子だよね。老子と聞いて真っ先に思い出すのは上善如水。最良の生き方は水のようである。浅い知識で書き続けてしまうことになるけれど、まあ良いか。詳しい人がいたら、そのうち指摘されるでしょう。

大地自然の呼吸に合わせてみる。そうすると、そのリズムは社会のそれとは違っていることに気がつく。社会のどこかに無理があるということだ。正確に言えば、社会の持っているシステムね。無為自然のなかに見を浸らせて、本質的な自分自身を探り出す事から始める。自分らしい生き方とか、人生哲学みたいなものだと思えば良いのかな。もしかしたら、持って生まれた才能かもしれない。天分とかね。

そういえば、老子の中では「足るを知る」って表現されていたようなきがするな。他人と比較して羨むなということでもあるし、己自身を知るということでもあるし、余計なことをしないってことでもあるし。そんな風に解釈しているんだけどね。もしかしたら、宿命とか天命みたいな意味でもあるのかもしれない。霊的なものじゃなくてさ。己が生きる道を見定めるためステップとしてね。

老子の言葉だけで、道という言葉を読み解くのは偏ってしまうかな。まいっか。道について、こんなに深く言及した人もあんまりいないだろうし。まさか、道路という意味でもないだろうからさ。

思いっきり集約すると、良い生き方みたいな感覚。それも個人にフォーカスした感じがする。

じゃあ、徳ってなんだろう。連想するのは、徳を積むとか、功徳とか、徳目とかかな。良いことをして、それを貯金しているような感じにも見える。魂を磨くみたいな意味もありそうだけど、なんとなく「道」とは意味が違う気がするんだ。なんだろうな。個人という部分の捉え方が違うんじゃないだろうか。もうちょっと社会的なイメージ。

徳っていうのは、個人のものではあるのだけれど、社会の繋がりの中で存在するものだと思うんだ。じゃないと、良いことの定義がうまく決着しないから。善い行いっていうのは、自分と他の誰かにとって良い行動のこと。自分だけが良いと感じることは、必ずしも他人にとっても良いとは限らないじゃない。だからさ。人間関係のなかで定義される良い事を行うことが、徳目ってことになるよね。

徳。これ、言い換えると損得勘定とも言えるかもしれない。周りの人たちにとって良いことをしておくと、結局は自分にとって得だということにならないかな。もちろん、騙して利益を得ることだって得するとも言えるかもしれないよ。だけど、それって超短期的じゃない。長い目で見たら、社会にとって良いことをしておいたほうが得するってはなし。あ、なんだか「利己的な遺伝子」みたいな世界観。これ以上は沼だなあ。

ま、いっか。

ざっくりまとめると、「個人の生き様」と「社会での善行」の組み合わせか。いいのか、これ?あってる?

もしこれが道徳の意味するところだとすると、すごく大変なことだよね。だって、小学一年生にこれを理解させるんでしょ。メチャクチャ難しくないかな。

まだ、徳目のほうが理解しやすい気がする。いろんな物語に載せて、ケーススタディもできるだろうしね。ある種の社会正義はこういうもんだってことを、直感的に理解できるかもしれない。

道のほうはなあ。大人だって、何割の人が「己の生き様」みたいなものを語れるかわからないくらいだろうに。というのも、誰かが規定してくれるようなものでもない。それこそ自分の頭で考えなくちゃ意味がないんだ。体験して、感じて、学んで、考えて、という繰り返しをしていく中で、それぞれに掴み取っていくようなものだ。と思うのだ。これを小学生に指導するのは無理ってものだ。だいたい、経験値が足りなすぎるよ。

道徳の授業って、どんなカリキュラムで行っているんだろう。道と徳の両方を授業に取り入れているのかな。それとも、名前を使っているだけで、実際の内容は後者に比重があるのだろうか。めっちゃ難しいと思うんだけど。

徳を学んでいって、徐々に道の要素を取り入れていく。それも、個々人が自ら道を見つけ出すように導いていく。そんな風になっていると良いんだろうけど。そういえば、大戦前の教育ってそんな感じじゃなかったっけ。尋常小学校で徳目を学んでいって、その先の学びや人生の中で道をつかんでいくような。曖昧ですな。ちゃんと勉強してからものを言ったほうが良さそうだ。

今日も読んでくれてありがとうございます。道徳と経済の両輪って、想像以上に深い話だってことがわかった。そりゃそうだよなあ。時間の風化に耐えて残った考えなんだから、そうそうたやすくはないって。

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