今日のエッセイ-たろう

じわじわ変わる。社会は小さなコミュニティの集合。 2025年4月2日

新しく作り変えるためには、それまでのものを破壊しなくちゃならない。創造的破壊といわれるのだけど、よく聞く議論では全部破壊しようとしている気がする。組織そのもの、システムそのものを破壊して作り変えるという話。

それって、議論としては結構乱暴なんじゃないかと思っている。

日本には座とか株仲間みたいな同業者組合があったし、西欧だったらギルドとかツンフトと呼ばれる集団があった。そのせいで新規参入が難しかったという側面もあるけれど、互助システムが機能したおかげでその産業そのものが発展したとも言える。北ドイツあたりでは、ツンフトが機能したおかげで大商人だけでなく職人も都市政治に参画することが出来るようになった。一部の権力者に経済を独占されなかったからこそ商業都市として飛躍的に成長できたのだ。

同じようなことは、地域社会にもある。現代に比べれば江戸時代の村社会というのは移住の自由度は低いし、ヒエラルキー構造が強かった。そのかわりに、互助のシステムも強く機能していて、同じ価値観や世界観を共有した同じ土地に住まう者同士の助け合いが今よりも当たり前だったそうだ。

いろんな地域にいろんなタイプのクラスターがあって、それぞれのクラスターのなかで独自の文化が形成されていった。ある程度外部との交流を絞って、決まった人たちの中にいると独自文化が生まれるのだろう。その集団の中でだけ共有された過去の経験があって、その経験から紡ぎ出された感覚がある。

甲府ではジャガイモのことを「せいだゆう芋」とか「せいだ芋」と呼ぶ。それは18世紀の終わり頃に甲府代官を努めた中井清太夫の名前に由来している。天明の飢饉で疲弊した領民の救済のために九州からジャガイモを取り寄せて普及させたからだ。閉じたコミュニティの中でこそ「せいだいも」で通じるし、せいだいも料理も独自に発展していく。同じように、社内だけで通じる言葉や常識があるなど、ある程度限定されたコミュニティで文化が紡ぎ出され、やがて伝統になっていく。このあたりは、平安時代に遣唐使を廃止して進展した国風文化を思い浮かべるとわかりやすいかもしれない。

なにか、不都合が生まれたとき。ぼくらは、その原因を特定して改善しようとする。それは良いことだと思うのだけれど、不都合の原因が、別の良いと感じているものを支えていることがある。そのことも忘れないようにしたい。うっかり、排除したり破壊したりすると、それまで大切にしてきたことも一緒に失うことになりかねないから。

カラダの何処かが調子が悪くなったら、基本的に自然治癒力をもって健康になろうとする。肌が荒れたら、古い細胞が少しずつ剥がれ落ちていって、少しずつ新しい細胞に入れ替わる。大きな怪我や病気であれば話は別だけれど、まずベースになるのは新陳代謝なんじゃないかと思うのだ。

ぼくらは、個人の認識を変えるにしても、社会全体の価値観を変えるにしてもある程度の時間を要する生き物だ。じわじわと変わるしか無い。と、そういうことにして考えてみる。

実際、食文化の変化を歴史的に観察してみると、イノベーションが起きたところで人間の方はじわじわと変化しているだけのように思える。

社会全体の文化というものは、統一規格のようなものではなくて、閉じたコミュニティの寄せ集めだ。a{b(c+d+e)+f(g+h+i)}という妙な数式を思いついたのだけれど、特定の地域における文化の特徴について、ぼくが抱くイメージがこんな感じ。「g」の地域に住む人は、「g」というオリジナルな文化を持っている。と同時に、「f」の要素もあって、「a」の要素もある。俯瞰してみると、広域では「f」文化圏が存在していて、更に俯瞰してみると「a」という文化圏の中にある。そんな感覚。

「g」や「h」のような、文化的コミュニティが消失すると、日本文化は「ab」と「af」という単純なものになってしまう。最終的には「a」だけになってしまうかもしれない。それって、ほんとに面白いのか。楽しいのかな。国内旅行をしても、味気ないと思ってしまうような気がする。

一方で海外から見れば、そもそも「a」文化圏じゃないのだから、小さな文化的コミュニティよりも大きな違いに着目する。というか、差分に気が付きにくいのだと思う。来日前や、訪日しても最初のうちはざっくりと「日本らしさ」を感じることになる。だけど、そのうちに東日本、西日本という分類ができるようになって、旅慣れている人なら地域ごとの違いを楽しむようになる。

ぼくらが意識しておきたいのは、小さなコミュニティと大きなコミュニティの見え方だ。他人からどんなふうに見えているかを想像することも大切だし、ぼくらがどちらの視点も持ち合わせていることも大切。その視点を持ったうえで、既存の仕組みのどこをどんな風に変えたら、それがどんな影響を与えていくのかを想像する。想像したところで当たらないだろうけど、せめて想定の真逆にならないように気をつけるくらいのことはしたほうが良いんじゃないかな。

守りたいと思える伝統を守るために。と考えると、「小さなコミュニティ」とか「じわじわと変革」みたいなキーワードが大切になりそうだ。なんだけど、これがまた経済合理性とは相性が悪い。ネオリベなら、市場原理にそぐわないものは消滅するのが当たり前ということになるのかもしれないけれど、だとするとちょっと面白くない世界になってしまいそうだ。だから、現在の資本主義社会が絶対駄目だというわけじゃなくて、共存できるようにどちらもじわじわと修正していく。そんなイメージかな。

今日も読んでいただきありがとうございます。いつも以上にまとまらない文章になってしまった。それだけ、まだぼくの中で整理が出来ていないってことなんだろうな。なにしろ、具体的な方策で「これだ!」と思えるものが、ぼくの中にないんだもの。焦ってもしょうがないから、もう少し熟成させるとしよう。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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