SNSで飲食店経営者が「原則マスク着用を禁止する」ことを検討していると言っていた。主にコミュニケーションの問題で、顔が見えないっていうのは非言語コミュニケーションの重要なパートを制限されている状態。わざわざ経営会議するまでもない話のようにも思えなくはないけど、お客様にナニカ言われたら嫌だという理由でマスクをしているスタッフがいたら、会社が明言してくれるはありがたいのかもしれない。
この投稿に対して、飲食店なんだから衛生面を考えたらマスクを着用すべきだ、というコメントがついていた。それはそれで個人の意見だけど、ぼくには極端に思える。ふと、古い映画を思い出した。タイトルがわからなかったので調べたところ、「デモリションマン」という映画だった。タイトルを見ても全くピンとこないのだが、1993年公開ということだから仕方がない。かろうじて主役がシルベスター・スタローンであることと、大雑把なストーリーを覚えていたのでなんとなたどり着いた。
舞台は2032年。1996年に大活躍したロサンゼルス市警の警察官だが、結構乱暴者だったためにやりすぎてしまい、冷凍刑になる。で、同じ時代に逮捕した凶悪犯も2032年に解凍されて事件が勃発したので、この刑事も解凍。なんやかんやあって、派手なアクションを乗り越えて解決。というのが大まかな流れ。こうしたこの時代の映画にありがちなのが、ヒーローのパートナーには美女である。当時は認識していなかったけど、サンドラ・ブロックだったのね。
この映画で印象に残っているのは、主役とパートナーのやりとり。古い価値観と未来の価値観のすれ違いだ。この舞台では、20世紀には当たり前だったものが違法になっていて、それはどんな時代でもそうなのだけれど、ちょっと健康に悪いと思われそうな清涼飲料水やスナックは違法である。人を驚かせるようなものも駄目ということで、びっくり箱まで禁止されている。それが当然であるというのが人々の認識になっているのだ。かつてアメリカに禁酒法というのがあって、なかなか大変なことになったはずだけれど、未来のロサンゼルスで実現できるのだろうか。
衝撃的だったのは、人との接触についてだ。ある時、美女の方から「今夜セックスしない?」と唐突に誘われる。主人公がびっくりしていると、用意されたのはVRゴーグル。この世界では、人と触れ合うことそのものが「汚い」事になっているのだ。キスも気持ち悪いし、ハグや握手だって気持ち悪い。なのに、バーチャルとはいえ気軽に裸を見せたりするのは良いらしい。コミュニケーション手段だと割り切るとしても、なんだかすごくアンバランスに見える。子どもは人工授精でカプセルから生まれてくるから、両親はいるけれど直接触れることはないのか。
文字情報を頼りに遠い記憶を呼び起こしているので色々と違うところもあるかもしれないけど、当時ぼくが触れた違和感はここにあった。
何がキレイで何が汚いのか。これは、歴史を見るとわかるのだけれど本当に社会によって違うのだ。たべものラジオで取り上げたミルクのシリーズでは、現代人の感覚では考えられないような不衛生な状況が見られた。もちろん、その時代に問題視されて改善する人たちが現れるのだけれど、別に他の人達はちょっとくらいは汚いと思っているかもしれないけれど、基本的には無関心。だって、それが当たり前なんだから。なにも汚いとは思わない。
逆方向に突き詰めていくと、人の往来に混ざることでさえも汚いと感じるようになるかもしれない。冒頭のマスクの話じゃないけれど、都会における人と人との物理的距離感は、田舎では考えられないほど密着している。そうなると、食べ物を仲介するどころか呼気も飛沫も直接的に影響することになる。だから、パンデミックのときには距離感が大切だってことになったんだよね。
映画の世界は、ぼくの世界観からするとちょっと生きづらそうだなと思う。なんというか、やり過ぎ。だからといって、ミルクが白い毒薬とまで言われた価値観もつらい。現代が最適解なのかというと、まぁそんなことはないだろうけど、どちらかに寄り過ぎると生きづらいと思うんだ。良い按配の妥協点。このあたりまでは社会性動物としては許容していいよね。ここから先はリスクは大きいよね。という感じ。完璧にクリーンにするのじゃなくて、どこかで妥協点を見つける。かな。
今日も読んでいただきありがとうございます。たしかレンタルビデオを借りて見たんじゃなかったかな。たぶん、高校生くらいだと思うんだけど。それにしても、よく覚えていたな。なんでだろう。思春期だったからエッチなことに紐づいて覚えていたのかもしれないけど、好きな人と手も握れない世界なんて嫌だなと思った記憶はあるんだよね。