「ケのハレ化」という話をいろんなところでしていて、そのたびにいろいろと考えることがある。日常の食事がハレ化しているという感覚。本来、「ケ」であるはずの家庭料理が、どんどん豪勢に手のかかったものになって「ハレ」の食事のようになっている。という意味だったのだけれど、はたして本当にそうなのだろうか。と思うようにもなっている。
「ケ」の場に「ハレ」が入り込んでいると言い換えると、どうも「ハレの食事」が日常化していることになるんじゃないだろうか。希少だったはずのものがたくさん有るというのは、相対的に価値が下がる。で、高級料理店はより「ハレ」を求められるし、日頃の手料理ももっと凝ったものが求められるようになっていく。じゃあ、元々あった「ケ」の料理はどこへ行ってしまったのだろう。
まだ家電などなかった時代。日常的に手のかかる料理を作ることも出来なければ、食べたいものを食べたいときに食べられるような保存技術も流通網もない。だから、たまたまめぐり合わせで手に入った食材を、食べられるように加工して食べる。ただ、そうは言ってもなるべく美味しく食べたいから、出来る範囲でちょっとずつ工夫を積み重ねていく。その結果、様々な料理が生まれたのだろう。今では郷土料理というカタチで残っているものがこれにあたるのかもしれない。
日常使いの道具があるように、日常使いの料理がある。何の変哲もない道具なのだけれど、ちゃんと手入れされていて、丁寧に使っていく。それは、ただ現代に比べれば物質的に貧しかったからかもしれない。それと同時に、禅の思想が日本中に土着していたからかもしれない。
ひとつひとつの作業としっかり向き合って、丁寧に行う。曹洞宗の開祖である道元禅師のいう、食との向き合い方は雑に言ってしまえばこういうことだろう。これは、禅的だともいえるし、老荘思想的だとも言えるし、アニミズム的だとも言えそうだ。食べ物にも、道具にもありとあらゆるところに霊的なものを感じていて、それらを蔑ろにしない。一種のおそれのようなものがある。ご飯を無駄にすると目が潰れるとかバチが当たるというのが、これにあたる。
日本文化のクオリアを明確にするのは難しいけれど、直感的には上記のような思想が影響しているのじゃないかと思う。であるならば、だ。日常ではない「ハレの食事」は、この思想の延長上に有ると考えるのが自然だろうと思う。
ハレの食事は、元々は人のための食事ではなかったと聞く。神様に捧げて、それを分かち合って霊的な力を得る共食へと繋がって、吉凶の節目などに用いられるようになっていった。神様が食べるものだから、とにかく清いものでなくてはならない。神饌に用いられる食器が白であり、無垢であるのは、清浄の観念があるという。
ハレの食事は、確かに手のかかったものではある。が、多くの場合は、その時手に入ったものを神様に供する。たまたま捕れた魚や獣と、手をかけて作った酒や餅。そういう組み合わせがベースにあるように見えるのだが、どうだろう。まだ、勉強が追いついていないので明確なことは言えないけれど、現時点ではそうじゃないかと思うのだ。
あれが食べたい、と言えば大抵の食材は手に入る。これが良いといえば、お金さえかければなんとかなってしまう。夏場にふぐが食べたいといえば、状態の良いときに瞬間冷凍したふぐを使って料理することが出来るし、食べることが出来る。ただ、指定された日時に、確実に生のふぐを手に入れられるかと言えば、可能性は低い。
何が言いたいかわかりづらくなってしまった。要するに、ぼくが「ハレ化」したと思っていたものは、伝統的な「ハレの食事」とは異なるものだったということだ。手のかかるものという意味ではハレの食事になっているけれど、一方ではハレの食の文脈とは無関係な贅沢が混在しているのかもしれない。山中でも鮪の刺身を食べられるし、海沿いでも山菜を楽しむことが出来る。それ自体は豊かでありがたい。が、ハレ化とはちょっと違うものなのかもなぁ、とぼんやり思ったりしている。
今日も読んでいただきありがとうございます。このことに答えを見出す意味なんてないとは思うんだけどね。なんとなく気になっていて。例えば旅行に行ったら、山の中で刺し身を食べたいとは思わないんだよね。そんなことより、地元ならではのものが食べたい。それが、ぼくにとっての「ハレの食事」だからさ。食べる人によって、ハレの食事の内容が変わっちゃうのがアレなんだけど。