今日のエッセイ-たろう

日本の「粋」 2022年6月30日

今年の夏は、夏祭りや花火大会を開催できるのだろうか。そろそろやりたいよね。そりゃま、興味もない人もいるのだろうけどさ。それでも「なんでまたこんなに暑い日に、わざわざ人混みに出かけていかなくちゃいけないんだ。花火なんてただの火薬の燃焼だろうに。」などとのたまう御仁は、無粋というものだろう。

無粋って、しれっと書いてしまったけれど、なんだこれ。無粋の反対は「粋」か。「あいつぁ、粋な野郎でね」って、落語の世界の江戸っ子が言いそうなセリフだ。なんとなくわかっているようでいて、それでも説明できる気がしない。もうとにかく、ふわっとした感覚だ。

ぼくの知っている「粋」って、ホントの意味で粋なんだろうか。そもそも、言語化したこともない。その説明を聞いたこともない。あっているかどうかなんて、わかるわけもない。

それでも、「なんとなくでよろしければ」と遠慮がちにだったら、わかる気がするんだよね。どこでインストールしてきたんだろう。映画や小説の世界で表現されていることもあるだろうし、いつかどこかで誰かの粋な様子を見たことがあるのかもしれない。「粋だねぇ」ってセリフを聞いて、「そうか。こういうのを粋って言うんだ」と、累積させてきたのかもね。

そういえば、ばあちゃんが僕らをたしなめるときには「無粋」とか「下品」といった言葉を使っていた事がある。ある種の美学なんだろうね。ばあちゃんの中に「粋」や「美」がちゃんとある。だから、そこから外れた言動に対して「無粋」「下品」と評したのだ。

旅行中に、景色や雰囲気を楽しんでいたとする。そんなときに、仕事の話をし始めるとするじゃない。がっつり会議とか。そりゃもう、「下品」ってことになるわな。どこかの小説家だったか脚本家だったか忘れたけれど、そんなことを言っていた。プールサイドでのんびりとしているときに、旅行に同行していた編集者が打ち合わせめいた話を始めたそうだ。「下品ねぇ。夕食前に時間を取ってあげるから、そのときになさい。」

そんなエピソード。どこで聞いたか忘れたけどね。

切り分けるということは必要だ。情緒的に非日常を楽しんでいるところに、日常を持ち込むのは無粋ってものだ。確かになあ。ディズニーランドの隅っこで、家族そっちのけで仕事の電話をしているのは「粋」とは言えないな。

って、よくやるんだよ。これ。ディズニーランドじゃないけれど。家族とショッピングモールか何かにいるときに、打合せの調整だとか、予約の電話だとか、料理の問い合わせだとか。会社を経営する身としては、電話を逃したくない。それは、父の代でもそうだった。家族旅行の最中でも、両親は必ず予約台帳を持ち歩いていたしね。そういうもんだと思っていた。

そういえば、一度先方から電話を掛け直すと言ってもらったことがある。電話に出たら、「今日休み?」と言われて「定休日です」と答えた。「そっか、出かけてるんだね」「すみません」「いや、家族と出かけてるんでしょ。音でわかるから。せっかくの時間を申し訳なかった。明日かけるから、今日は楽しんで」

こんなことが言える方は少ない。感動するよね。なんとなく「粋」ってこういう感じなんだろう。

ちょっとした気遣い。それも、みなまで言わないというのもあるよね。わかりきっていることを最後まで言っちゃったら、興ざめする。そんなのもある。例えば、男女の話なんかはそうだ。

男女の粋っていうのはね。その距離が近ければ近いほど良い。だけど、決して交わらない。言葉にしないけれど、仕草だとか視線だとか、そういうもので恋慕の情っていのは伝わるものだ。互いに知りつつ、言葉にせず。だから、互いに片思いのままで居続ける。

これまた出典を忘れてしまったな。確か明治時代の本だったはず。江戸時代の遊郭を思わせるような表現だったから。

全部見せない。チラリズムみたいだけど、それともまたちょっと違う。

美しいけど美しすぎない。かっこいいのに、ちょっと滑稽な感じも漂う。

具象化できるのに、あえて抽象的な部分を残しておく。

その「スキマ」みたいな部分を残しておいて、その部分は受け取り側の想像力に任せる。なんというかな。言語化が難しいな。

絵の中に鏡が描かれている。窓でも良い。他の部分ははっきりと描かれているのに、その向こう側だけが少しぼやけている。人物なら男にも見えるし女にも見えるし、子供にも大人にも見える。そういう、見る人の想像に任せるための余白を残しておくような感覚。そこに全部を見せない粋があるのかもしれない。

日本料理の盛り付けには、「見立て」という言葉が使われることがある。富士山に見立てるとか。あんまり富士山をモチーフにすることはないか。人参で作るチョウチョ。きゅうりで作るカエル。それは、ちゃんとチョウチョやカエルに見えるのだけれど、かなり抽象的な剥きものなんだ。折り紙で作るツルもそうだよね。

やろうと思えば、どこまでも写実的に作ることもできるんだよ。実際に、本物そっくりの鯉やツルを大根から掘り出すこともあるんだから。だけど、やらないんだ。

なんとなく、「それっぽく見せる」でとどめておく。というのが粋なんだろうね。

今日も読んでくれてありがとうございます。ややこしいといえば、ややこしいかも知れない。それは、現代の日本人が西洋文化をかなり色濃く取り入れてきたからそう感じるだけのことだろうね。西洋文化は外的が多い環境で育ったから、ストレートに表現せざるをえないんだとか。心を読み合うことを、正解のない遊びとして捉えると良いのかもね。そういうゆとりがあると良い。

  • この記事を書いた人
  • 最新記事

武藤 太郎

1988年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ、カルフォルニア州の大学留学。帰国後東京に移動し新宿でビックカメラや携帯販売のセールスを務める。お立ち台のトーク技術や接客技術の高さを認められ、秋葉原のヨドバシカメラのチーフにヘッドハンティングされる。結婚後、宮城県に移住し訪問販売業に従事したあと東京へ戻り、旧e-mobile(イーモバイル)(現在のソフトバンク Yモバイル)に移動。コールセンターの立ち上げの任を受け1年半足らずで5人の部署から200人を抱える部署まで成長。2014年、自分のやりたいことを実現させるため、実家、掛茶料理むとうへUターン。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務める。2021年、代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなどで活動している。

-今日のエッセイ-たろう
-, , ,