砂糖のような世界商品は、ある程度共通の価格で安定すると言われる。経済学における「一物一価の法則」というやつだ。自由経済市場で、なおかつ同一の市場で同一時点ならば、自然と価格は一定に定まる傾向にあるという。
売り手が複数あって、そのうち誰かが安く提供したとする。小さな町とかバザールとか、そういったところで同じ商品が違う価格で販売されているとしたら、それは一番安いところに消費者が集中するだろう。他の店が売れなくなるので、結果的に一番安い価格に統一されることになる。というのである。神の見えざる手と似たような話だけど、必ずしも成立するわけじゃないが、まぁだいたいそうなるよね、という話。
そのためには、自由競争が可能なマーケットであることが前提である。それから、情報も同時に流通していなくてはならない。じゃないと、知っている人だけが得をするという形になって、それで着地するからだ。情報の非対称性があるところでは実際に価格は一つに定まらない。
例えば、海外旅行客と現地の人が同じホテルに宿泊するとして、その価格設定が同じではないことがある。日本語で表示されているサイトでは、現地価格よりもずっと高くなっているケースが有る。現地語を読めるかどうかということで、情報に非対称性が生まれていると言える。
一物一価の法則については、深く触れないが、少し気になっているのが上記の例。一般的にボッタクリと感じてしまうこの現象が社会のなかで機能していることがある。しかも、それは想像以上に大きなマーケットで動いているように見えるのだ。そうでなければ、ホテルの価格比較サイトが成立するはずがない。購入するサイトによって価格が異なることには、なにかしらの要因と効果があるからではないだろうか。
価格設定者の気持ちになって考えてみよう。ホテルの従業員にとって、時として「外国人」は面倒だと感じることがあるかもしれない。差別ではなく、実際の業務量が変わるという意味においてだ。まず、シンプルに言語の壁がある。受付からルームサービスまで、母国語が通じないとする。たとえば、英語を話すことが出来るスタッフくらいは雇用しなくてはならないかもしれない。そこには確実にコストが発生する。表示を多言語化する必要があるだろうが、それもコストの掛かることである。
コストというとお金のことに意識が向くのだが、人的なコストも馬鹿にならない。時間や労働力、精神的な負荷も含めればそういうことになる。日本人同士であれば、「常識」という社会通念によって共有知がある。それに立脚したサービスが存在している。しかし、異なる文化で生きている人にとっては、それが常識ではなく特別なことになる場合もある。もちろん、その逆もある。この「常識」の「ギャップ」は、それを埋めるためのコストが発生するだろう。
対応としては2つ。どんな文化圏の人でも共有できるサービスを構築して、共有できるように様々な工夫を凝らすこと。もうひとつは、おなじ常識が通じる人だけに来てもらうようにすることだ。
ここに、もうひとつの価値観が見えてくる。サイトによって宿泊価格を高く設定する場合には、そのサイトを利用する客層にはあまり来て欲しくないという価値観。税金でもなんでもそうだが、行動をコントロールする際には支払金額を高く設定することで制限することがある。タバコの税率を引き上げることで喫煙者を減らそうというのと同じである。
オンライサロンなどのコミュニティでも、月額の会費が高く設定されている場合がある。それは、「その金額を払ってでも参加したいと思う人」を選別する行為だ。これによって、コミュニティ内の平和や質が維持できることがあり、何の違和感もなく受け入れられる仕組みである。
さて、同じ商品でありながら価格が異なることについて、どのように解釈したら良いのだろうか。場合によっては、それを用いることで良い経済の仕組みを作ることも出来るかもしれない。そんな可能性を考えていきたい。一物多価。直感的には、ここに観光や食の可能性がありそうだと思っているからだ。
今日も読んでくれてありがとうございます。またもや長くなってしまった。しょうがないから、続きは明日にしようかな。一物一価ではない経済の仕組みについて、もう少し深く考察してみようと思うんだ。なんとなくだけど、ぼくらの日常に潜んでいながらも直感に反する価値観にヒントがあるんじゃないかと思ってね。もし、意見や感想などがあれば、ぜひコメントをしてもらえると嬉しいです。