子どもたちと遊んでいる時間はとても楽しい。楽しいのだけれど、後片付けが苦手なようで、それはやっぱりどこの家庭でも同じらしい。やっとのことで片付けを始めたと思ったら、すぐに遊びを始めてしまう。散らかったレゴを片付けるつもりが、そのレゴを見て思い出したのか、作りかけの家をまた組み立て始めてしまう。そんなことはしょっちゅうだ。
片付けでも、着替えでも、時間がかかる。よくよく観察してみると、手を動かすのが遅いのではなくて、要因は2つあるのではないかと気がついた。ひとつは、他のことに気を取られて作業の途中でそちらに行動を移してしまうこと。もうひとつは、作業そのものを遊んでしまうこと。
着替えをするのだって、こういうことにするって言って、ルールを作る。ズボンとシャツを一度床に並べて、寝転んで滑り込むようにして着るとか、普段はやらないことをルールにして、うまく出来るかどうかを楽しんでいる。失敗したらまたやり直し。そんな調子だから、何倍もの時間がかかる。
大人の目で見れば、とにかく効率が悪い。だから、遊ぶときは遊ぶ、やるときはやる。メリハリが大事だってことを教えるわけだ。面倒な作業はさっさと済ませてやるべきことに取り掛かるとか、のんびりくつろぐなり、遊ぶなりすれば良い。確かにそうは思うのだけれど、だからこそ大人になると遊ぶのが下手になるのかもしれない。
なんというか、遊ぶための遊びしかできない。最たるものは、遊びイコールテーマパークという無意識の行動。そうではないとしても、ボードゲームでも釣りでも何でも良いのだけれど、これこそが遊びだと思える行為だけを遊びだと思っている。まさか、日常生活の一つ一つの作業や、仕事のメールを送ることは遊びだなんて考えることはない。
そう考え始めたら、子どもたちの「なんでも遊びにする」という行為は無下にできないぞ、という気がしてきた。しつけと称して、完全に消してしまうのはもったいない。だからといって、そのまんまだと日常生活に支障をきたしてしまう。さて、どうしてバランスを取るのが良いのだろうか。テレビの教育番組では、仲間分けゲームみたいにして片付けを楽しませるという方法が紹介されていて、それも良さそうだ。だけど、それも結局は大人の都合でルールを設定しているにすぎない。言い換えると、子どものなんでも遊んでしまう習性をハックしているということでもあるだろう。
もし遊びの要素がなかったら、たぶんだけど、会席料理はこんな形になっていないんじゃないかと思っている。調理の本質は、そのままでは食べられないものを食べられるようにすること。そのうえで、できればおいしい方が良いということになる。この前提の上に、本来ならやらなくてもいいはずの工夫や飾りが加えられて、更には物語性まで付加されている。
ぼくは、常々「料理は遊びだ」と言っている。ぼくなりの勝手な整理だけど、食べられるようにするということと、できればおいしい方が良いという部分までを調理としている。で、その後の工夫とか装飾や物語部分まで手を出したら料理。だから、料理っていうのは、本質的には生きていくために不要なもので、だけど遊びとして心を豊かにしてくれるものでもある。という感覚。
子どもたちとの違いは、行為そのものを遊びにしていないことだろうか。作業は作業として、切り分けている。それよりも、創作行為そのものを遊びとして捉えているかもしれないな。いやいや、そうとは言い切れないか。盛り付けの型みたいなのがあって、それをベースにあれこれと工夫をするのだって、型そのものは自分で編み出したものじゃないけれど、型という制約の中で自由に動くというのは遊びである。手を使っちゃいけないしエリアも決められているという型の中で、サッカー選手は自由を発揮してクリエイティブになれる。という感じ。
型を共有していると、それが遊びとして確立していくのか。スポーツもアクティビティもボードゲームも、絵も和歌も。誰か個人が作ったルールかもしれないし、時空を超えた場というか、共有空間の中で集合知として生まれたルールかもしれない。ルールがあるからこそ、遊びは遊びになる。そうすると、今ぼくが見ている子どもたちの「なんでも遊び」は、やがてどこかで繋がっていって、みんなの集合知としての遊びに繋がっているということだ。
今日も読んでいただきありがとうございます。これ、日常生活とのバランスを取るのめちゃくちゃ難しくない?全部が全部子どもたちのペースに合わせていたら、学校に遅れちゃうし、授業が進まない。あ、そういうことか。もしかして、国民教育が始まってから生まれた歪ってこと?うーむわからん。近世以前とか、どうしてたんだろうな。