やりがいってなんだろう。そんなテーマを与えられたのは、地元の中学校での職業講話。いろんな職業に従事する人が、中学校に出向いて授業を受け持つのだ。わたしもそのなかの一コマを受け持つことになっていたのだが、子どもたちは何を感じ取っただろうか。
私にとってのやりがい、を述べることは容易い。授業の主旨としては、社会で働く人の「いろんなやりがい」の有り様に間近に接することなのだろう。ただ、私にとってのやりがいが他の誰かと同じなどということはないだろうし、参考程度にしかならないとも思う。
つまるところ、なにをするときに「ワクワクするか」だろうと思うのだ。
例えば、料理店を経営する料理人。つまりは私のことだが。同じ立場でも、どこに「ワクワク」を覚えるかは人によって違う。
料理を作る行為そのものにワクワクする人。作った料理の完成度が高いことを自分で感じられることにワクワクする人。食べた人が喜んでくれることにワクワクする人。食べた人に褒められてワクワクする人。料理が売れて儲かることにワクワクする人。特定の人に届けられたらワクワクする人もいれば、なるべく多くの人に届けたいと思っている人もいる。
心が動く行為や反応は、人それぞれなのだ。
そして、それに良いも悪いもない。
自分自身でコントロールできるかと言うと、出来るとも言えるし出来ないとも言える。性分というもので決まってしまっているかもしれない。
ゲームルールとしても捉えられる。サッカーならば、ゴールにボールをいれることが得点条件だし、それには手を使わないという制約がある。だからこそおもしろいと思えるわけだ。同じように、「美味しい料理を作ること」を勝利条件に設定していて、「会席料理」という制約の中でそれを達成するというゲームとも言える。
つまり、自分が最も情熱が傾けられるゲームルールを見出して、そこにどれだけ興じられるかがやりがいに繋がっている。という考え方だ。
ワクワクすることと、好きなことが必ずしも一致するとは限らない。ということもある。というか、そのほうが多いかもしれないとさえ思う。私なんぞは、好きなことなど無い。特別料理が好きというわけでもないし、金儲けが好きというわけでもない。褒められたら嬉しいけれど、それが勝利条件というわけでもない。
私がワクワクするのは、2つ。探求することと、誰かのためになること。自分でもなぜだかわからないけれど、そういう性分なのだからしょうがない。
営業職を続けていたのも、別に営業という職業が好きということではなかったようだ。ただ、ちょっとだけ得意だったし、ちょっとだけ他の人よりもよくできただけ。それをきっかけにして、営業という仕事の手法を探求しているのが楽しかった。その結果、会社の売上になったり買ってくれた人がハッピーになることにワクワクしていただけだった。と、先日友人に言われて気がついた。料理もきっと一緒。日本料理を探求していて、技術も探求するし、食文化も探求するし、作法やその他諸々のことも探求する。その結果、来店してくれた人のためになることにワクワクする。
きっとこれが私にマッチしたゲームルールなのだろうと思う。だから、極端なことを言ってしまえば、職業なんてなんでも良いのだ。興味を持って探求できる事柄で、その結果が誰かのためになってさえいれば、私にとってはどれもこれもがやりがいを感じられることなのだ。
いま、食文化やその歴史などを探求しているわけだけれど、これにどっぷりハマっている理由はただひとつ。底がないからだろう。これもまた友人に言われたことだ。たぶんそのとおりだと思う。どこまで探求しても、「よし、あらかたわかったぞ」とはならない。だから、まだ暫くの間は食に関する探求は終わらない。歴史だけじゃないからね。
最近になって、どうやらこの探求は誰かの役に立つらしいことがわかってきた。もちろん意義のあることだと思って始めたのだけれど、徐々に明確になってきた感覚がある。だとしたら、俄然やる気が出てくるじゃないか。それが今の私である。
今日も読んでいただきありがとうございます。子どもたちにとって、こんな話がどう役に立つのかはわからないけれど、とりあえず言いたいことは言ってきたつもり。何にワクワクするかなんて、やってみなければわからないもの。今は、手当たり次第節操なくチャレンジするのが良いと思うんだ。まずは、数をこなさなくちゃワクワクする自分にも出会えないよ。