日本は、食のマーケットとして、とてもおもしろく、同時にとてもめんどくさい。手前味噌だと思うのだけれど、とにかく食にうるさいのだ。もう、世界有数のグルメ大国だと言っても差し支えないのじゃないだろうか。
このグルメ大国を支えているのは、食品や料理を提供する人たちの存在は欠かせないのだけれど、根幹的には生活者だろうと思っている。食べる人たちが食にうるさいので、それに対応していかなければならない。という側面が強いのだと思う。
やたらと素材に注目する傾向が強い。例えば、植物で作られたマグロを食べるとしよう。日本人ならば、マグロと言えば刺し身やスシである。このスタイルで試食をすれば、当然ながら本物のマグロとの味や食感の違いに敏感にならざるを得ない。しかし、アメリカならばサラダに入れて食べる。ちょっと味の濃いドレッシングをかけて野菜とともに食べるならば、プラントベースマグロの味も食感も十分にマグロとして食べられる。
調理方法による違いではあるのだけれど、そもそも「どうやって審査するか」の発想が大きく違う。単体をきっちり見極めようとするのと、実際の料理の中でどう振る舞うかを感じようとするのとでは、視点が異なる。これが、日本における食の市場の特徴かもしれない。
そもそも、代替食でなくとも素材を楽しむ文化が強い。蕎麦を食べるときも、天ぷらを食べるときも、調味料は塩が良いという人がいる。そのほうが素材の味を楽しめるからなのだそうだ。僕自身はやらないのだけれど、気持ちはわかる。刺し身に代表されるように、素材の良さを掴みに行こうという姿勢は、どこか神祇信仰にも通じるようで興味深いところだ。
よくわからないけれど、冷奴などという料理も、素材に向き合おうとする思想から生まれたのかもしれない。「豆腐って、そのままでも旨いよね」から始まった刺し身なんじゃないか。などと妄想しているが、どうだろうか。
日本で代替肉が浸透しない理由のひとつは、ここにあるような気がしている。ついつい素材に注目してしまうのだ。だから「これは肉っぽいよ」と言われると、その鋭い素材観察眼が発動してしまう。鋭敏だからこそ、肉と肉っぽいものの差分を見事に看破するのだ。そして、わずかな差分から「違う」と断定する。
一方で、和食はとても柔軟に食材を受け入れる文化があると考えている(2024年10月30日のエッセイ参照)。だから、うまくハマれば代替肉だって、見事に受け入れて活用するはずだ。だから、人々の目を「肉っぽさを審査する」から引き離すのが良いだろう。
もう、肉だと思って調理しないくらいの感覚。おむすびの具でも寿司ネタでもいいし、麺に練り込んでも良いし、みそ汁の具にしても良い。カレーだってラーメンだって良いわけだし、白和えに使ったって良い。もしかしたらクッキーにも使えるかもしれないし、アイスクリームにも使えるかもしれない。もはや、肉だかなんだかわからないのだから、「未知の食材に出会っちゃった。おもしろい」「どうやって食べるんだろう」くらいの扱いでいい。
そうしたら、きっと「繊維質がものたりない」とか「肉汁が溢れる感じ」とか「大豆臭がする」とか、考えないもの。だいたいね。豆腐は大豆臭がするんだよ。それが美味しいの。本来、日本で暮らす僕達にとって大豆臭や嫌な匂いじゃないはずだよ。無理矢理抑え込むより、楽しむ方向で工夫しても良いんじゃないかな。
何度も同じことを繰り返してしまうけれど、この方向性のほうが食材としての可能性が広がるはずなんだ。そっくりに真似ることも良いけど、別素材として活用するのもおもしろいじゃない。未知の食材に出会った料理人は、きっとワクワクするはずだ。2年前のSKSで初めて口にした「ジャックフルーツミート」には、とてもワクワクしたもの。いろんなレシピが浮かんできて、試してみたいと思ったんだ。
そうしているうちに、「これは良いジャックフルーツミートだ」とか、「こっちのメーカーはイマイチだね」とか言い出すよ。もはや、肉としてではなく「ジャックフルーツミート」という食材に向き合うようになる。
今日も読んでいただきありがとうございます。「和食」と「日本の食文化」には、こういうソフト面でのイノベーションの種がいっぱいあるはず。現代人はちょっと忘れかけているだけで、歴史を振り返ればずっとやってきた「伝統芸」だもの。その底力を使わない手はない。と思うんだ。