今日のエッセイ-たろう

世界は「だいたい同じ」で回っている—「見なす」から「見分ける」へ

わかっていても、つい二度見してしまった。ガソリン価格が30円も上がれば、それはびっくりする。はっとするというより、実生活と直結することで危機感が”体験”になった感覚。

戦争の影響で、原油の供給量が減少。ただでさえ、OPECによる供給調整や油田開発への投資減少、産出コスト増で価格を押し上げられ。この状況で、これは痛い。中東情勢は原油価格の「急騰」を引き起こした。しかも、原油はドル建てで買うことになるから、円安であるということはかなり不利に働く。さらに、価格上昇を見越した先物投資が価格を引き上げる。

現代社会は石油に依存する割合が大きいから、どこまで影響があるだろうか。政府は、暫定税率とともに廃止した補助金を再開すると発表したが、他の産業への波及をどの程度まで抑制できるだろう。

石油市場ができた流れ

歴史的に見ると、石油産業が大きくなるきっかけとなったのは、1859年のアメリカペンシルバニア州で起こった商業的石油採掘ブーム。49年のゴールドラッシュに続いてオイルラッシュが起きたのだ。最初期のことだから、供給は不安定だし品質はバラバラだし、価格も乱高下する。
そこで登場したのがスタンダード・オイル社。精製の標準化、パイプライン整備、価格統制を行って産業としての基盤を作った。この時代は「企業が価格を決める」仕組み。地域でオンリーワンの商品を扱う小売店なら、今でもそうなるかな。ちなみにこの会社の創業者が、あの有名なロックフェラー。

1911年になると、スタンダード・オイルは解体される。米国最高裁で独占禁止法違反ということになり、34社に分割されたのだ。とは言え、有力企業がカルテルを組んで公式価格を決定していたのだから、あまり変わらない。この時代は「先に販売価格が決まって、それを基準に産出国へロイヤルティが支払われる」という仕組み。まぁ、産出国としては鬱憤が溜まりそうだ。

次のステップに移行したのは1980年代のこと。きっかけは1973年に起きたオイルショックだった。これまた戦争から始まったことだけれど、アラブ石油輸出国機構(OPEC)が輸出を停止したことで価格が4倍に。この頃、西側諸国では石油需要が急増していたし供給の多くを中東地域に依存していたから、世界は大混乱。日本でもトイレットペーパーの買い占めという不思議な混乱が発生した。

そこで、1983年に登場したのがニューヨーク・マーカンタイル取引所。いわゆる先物取引所なのだけれど、これによって価格が安定することになる。取引量が膨大になると、売り手と買い手の拮抗が起きて価格が安定するし、誰でも価格を見ることができて透明性を得られる。ある程度、価格変動が予測できるから石油会社や航空会社は経営が安定しやすいので、その分安定した価格で石油を供給することができる。
この仕組みは、1848年に始まったシカゴの穀物先物取引が既に運用をしていたので、石油市場にも導入した格好である。

先物取引というセンサー

そして2000年代、石油は金融商品になった。品質が標準化され物流が整うと、どこでも同じ物が手に入るという環境ができる。それはつまり、価値が同じものが未来に渡って手に入ると”信じる”ことができるということでもある。その結果、まだ存在しない未来の収穫物に対してお金を払うことができるようになった。いわゆる先物取引だ。
実際には品質が違ったとしても、差異を小さくすることで同じものとして扱うことにする。なるべく同一価格に近づけて取り扱うということらしい。

戦争などの世界情勢の急変が起きれば、価格が高騰することも容易に予測が立つ。そのおかげで、実物を移動させること無く売買取引だけで利ざやを稼ぐことができるのも取引の特徴。金融目的の投機だ。

石油や主要穀物のように人々の生活に直結する物資は、投機によって価格が上がることがある。特に、急激な変化が起きたときには加速させる方向に働くので、実際に必要な人の中の生活不安を膨らませてしまう。だからといって、先物市場が完全に悪いというわけではなさそうだ。

将来価格がどのように変化するかを予測するのに有効なセンサーの役割がある。価格が予測できれば、石油企業や航空や船舶を運行する企業の購買計画が立てやすい。これらの企業が安定した経営を行うことは、結果的に一般市場への供給が安定することにもなる。
例えば穀物なら、需要や流通量や気候などについて数カ月後のことを予測して購入するわけだ。それも一人ではなく、多くの人が真剣に予測を立てて、その結果で価格が形成されていく。これは一種の集合知と言っていい。未来を見ることはできないけれど、現時点で参照できる数値があれば企業は意思決定の材料にすることができるのだ。金融目的の投機は、いわば人間の欲の発露だけれど、その欲が未来予測に役立っているのは興味深い。

マーケットの参加者は、思わぬ効果を発揮する。例えば、売る人が少なくて買う人が多ければ商品は高くなるし、その反対も起きるわけだけど、売る人も買う人も多ければ価格は安定する。多少の上下はあるとしても、急騰急落はしにくいわけだ。未来の商品を取り扱うということは、それだけ取引量を作り出しているということだし、投機家は売り手にも買い手にもなるのだから、全体のボリュームを底上げすることになる。

なかなか難しい話だけれど、先物取引市場には面倒な影響もあるけれど、それなりに社会を安定化させる装置として機能しているということらしい。

標準化された世界商品

世界商品の代表格は石油や金だが、もっと身近にも世界商品はある。「たべものラジオ」でテーマに取り上げた砂糖は歴史的に有名だし、麦やトウモロコシなどの穀類も世界商品。世界中で需要があって、保存が可能で長距離輸送ができるという条件が重なって世界商品となる。

世界商品や、それに近い商品は品質が標準化されていく傾向にある。もちろん、イランの石油とベネズエラの石油が全く同じ品質ではないし、日本産の米とアメリカ産の米が同じではない。ただ、ある程度の範囲に品質が集中していて、それをもって「だいたい同じだ」と「見なす」のだ。じゃないと、巨大なマーケットで運用するには煩雑すぎる。

「品質の標準化」というのは品質がそろっていることよりも、「だいたい同じだと見なす」ことが肝心なのだろう。そうしたコンセンサスが金融市場では重要、ということだ。標準化は、世界中の穀物供給バランスを安定化させる役割を担っているとも言えるわけだ。

標準化の対極としての多様性

世界の価値観は「多様性を担保しよう」という方向に進んでいる。一見すると、多様性と標準化は相性が悪そうに感じるのだけれど、実際の所どうなのだろう。

例えば、食材が完全に同じになったとしよう。世界中のどこでも同じ品質の米や野菜が手に入るという環境だ。そうすると、完全に精密なレシピがあって、それを完璧に実行することができれば、世界中で全く同じクオリティの料理が再現できるはずだ。もしそんな世界がやってくれば、レシピ以外では料理を差別化することができなくなる。秘密のスパイスを入れたり、調理時間を工夫したり、それ以外にやりようがない。「それ以外に差別化なんてできるの?」と、現時点で思っている人もいるかも知れない。

現在流通しているレシピのほぼ全ては、完全に味を再現することはできない。全く同じ品質の野菜や肉や魚、同じ銘柄の調味料、同じキッチン性能、がすべて揃うなんてことはないのだ。もし再現したいと思ったら、これらの条件をなるべく同じに近づけなければならない。100円ショップの醤油とみりん風調味料を使っていては、どれだけ練習しても料亭の味にはならない。その点では、アメリカという国は比較的再現性の高い環境かもしれない。だいたい同じような品質の人参で、品質の差がほとんどない塩や胡椒などが調味の中心。キッチンも規格化されたものが多いだろう。

現代のレシピは、材料や調味料を「だいたい同じだと見なす」ところを前提にしている。本来、レシピというのは「調理事例集」であって、参考書としての色合いが強かったからだ。だから、レシピに書かれている「青菜」は、ほうれん草でも小松菜でもよかったのだ。味が違うことくらい、誰でもわかっている。そもそも求められているのは「ふむふむ。その手があったか」であって、「同じ味を再現したい」などとは考えていなかった。

多様性が高いからこそ、レシピは参考にとどめている。多様性が高いことを当たり前だと思っているからこそ、参考にするときにはざっくりと「似たようなもの」として作業に取り入れ、その結果として現れる多様性を受け入れてきた。

日本料理は引き算の料理と言われるが、食材の多様性ととても相性がいいとも言える。全く同じレシピで料理したとしても、地域性や作り手の感性が料理に個性を与えるからだ。一方で、食材や調味料が標準化した世界では、良さを発揮しきれない。素材の味を引き立てようとすればするほど、どんどん同じ味になるからだ。その世界では、レシピで差別化するしかないのである。「他の人とは違った味付けや演出」や「どれだけ素材から変化したか」が評価される価値観は、まさに中世から近世のヨーロッパの貴族食文化である。その感覚は現代でも「演出のための演出」として引き継がれている。

つまり、穀物のように食材が世界商品として扱われるようになると、金融商品としての「食の標準化」が進む。そして食はレシピでしか差別化できなくなり、結果としてレシピの重要性が高まっていくことになる。

そんな世界が成立するなんてことは、当分無いだろうとは思う。だけど、無意識のうちに私たちの「感覚」は、この方向へと動いている。感覚が置き換われば判断が変わり、いつしか「食材は均質なのが当たり前」という常識が生まれるかもしれない。

余談だが、近年では野菜の味が「甘さ」に傾斜している。いろんな野菜が甘くなっていて、煮物を作るときにはちょっと困るのだ。なんというか「特有のクセ」がないので、全体的に甘くてぼんやりした味になりやすい。もしかしたら、無意識のうちに標準化が進んでいるのかもしれない、などと考えてしまう。まぁ、売れやすいものを追い求めた結果ではあるのだろうけど。

商流のどこで価値を作るか

素材が標準化すると「誰でも同じ物を買える」ことになる。この環境は喜ばしい面がある一方で、加工業では原価競争になりやすいという側面も持っている。そこで、重要になるのは「下流における差別化」だろう。つまり、素材をどう組み合わせて、どのように変化させるかだ。レシピは、その点で重要な知恵となるから、レシピを秘密にすることや、知的権利として売買の対象となる。従来であればレシピは著作権の対象外で、いずれ誰かが思いつくはずの共有知財だった。それも、そのうち変化するのかもしれない。

ただし、それは「加工技術の知財化」でしかない。料理の価値はそれだけではないと思う。食べる人のことを考えて、何を選ぶのか、どれほど時間と労力を費やすのか、といったことも「食べる喜び」に繋がっている。作り手の思想や感情が心を動かすという現象は、家庭料理こそわかりやすく伝わる気がする。
近年、「物語を食べる」「情報を食べる」という表現を見かけるようになったが、それはおそらくこうした背景の変化によって強化された文脈なのだろう。かつて、道元が典座教訓で述べた「食への対峙の仕方」が、また別の流れで立ち現れているのが興味深い。日本には古くからガストロノミーの考え方が浸透しているけれど、それとは違った価値観や文脈でたち現れたのが現代的ガストロノミーかもしれない。

今日も読んでいただきありがとうございます。

日本の「引き算の料理」って、余計なものを取り除いて、素材の持ち味を活かそうとするんだよね。食材が標準化すると、引き算してみたら全部一緒なんてことになるかもしれない。でも、現実的には完全な標準化なんてできないわけだ。今でも「みなして」いるだけだからね。豊かな食文化というのは「みなさない」、つまりは個体差や地域差を感じて楽しむところにあるのかもね。そういう意味では、典座教訓に回帰しているとも言えるかな。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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