芸事にはあんまり詳しくないのだけれど、ちょっとめんどくさいなと思うのが「いじり」の笑いだ。友達と一緒にお酒を飲んでいて、いじるのもいじられるのも、別に嫌いというほどのことはないのだけれど、ちょっとめんどくさい。
特別なにかがあったというわけじゃないのだけれど、久しぶりにテレビ番組を見ていたら、不意にそんなことを思ったと言うだけの話。
「こいつ、こういう所あるんだよなぁ」「え、そうなの?意外」「言うなって。恥ずかしいだろ」くらいの会話は、別に嫌じゃないんだ。なんだろうな。人間だからね、あるよね、そういうこと。笑っちゃえ笑っちゃえ。みたいな感覚。
ただちょっとやりすぎて、人格否定になりかねないラインに踏み込むのはちょっと嫌。こいつはダメなんだ。とまでは言わないかもしれないけれど、可愛げがない。モノマネをするにしたって、なんだか人をおちょくったような表現は、気持ちがムズムズしてくる。
落語家の立川談志は、落語の笑いを「業の肯定」と表現したけれど、ぼくにはそういう笑いが性に合っているらしい。平たく言えば「あるある話」だ。冷静に第三者の目線で見れば非合理なことでも、人間って似たような失敗やっちゃうんだよねってなことをオーバーに表現する。しょうがねぇやつだなって、寛容に受け止めてくれるくらいの範囲内で笑い飛ばそうっていうのがちょうどいい。
傷ついたり嫌な気持ちになるようなことを言われたら、たぶん誰だって気分が悪くなると思うんだ。だけど、それを笑いに変えれば何でも許されるという空気感がちょっと苦手なんだよね。場の空気を壊さないために、自分さえ耐えれば良い。そんな空気になっている場に遭遇すると、なんだかいたたまれない気持ちになるんだ。
たべものラジオの配信の中で、よく弟にいじられているんだけど、それは良いんだよね。「話が長い」とか、「情報量多すぎる」とか、「常識が偏りすぎ」とか。自分でもわかっているつもりなんだけど、ついやっちゃうんだよね。ごめんごめん。それってぼくの業なんだもの。きっと笑ってくれている人だって、しょうがねぇやつだなって思っているんじゃないかな。
場を支配するのって、力や権威だけじゃないってことなんだろうな。ほんとは人を幸せな気持ちにするはずの笑いだって、場の空気を支配する。同調圧力ともいえるのかもしれないけど、なんかちょっと違うような気もする。このあたり、言語化するのって難しい。言語化どころか、まだうまく違いを捉えられていないという感覚もある。
江戸時代後期から近代へと向かう食品産業の構造変化を見ていると、どこか文字面に現れない空気感があったのじゃないかと思うことがある。100年以上前のことだから、なかなかうまく想像できない。文章だけで理解しようとすると、そんなことありえるの?冷静に考えたら変だよね?って思うような出来事がいっぱいある。本を読み進めていると、すぐに忘れてしまうくらいに些細な出来事だって、たぶんちゃんと記録したらたくさんあると思う。
当時の空気感では、そういうことをするのが当たり前だったということ。それは、今と価値観が違うというだけじゃなくて、当時の人だって違和感はあったけれど場を乱さないためにはそうするしか無かった、というようなことだってあったと思うんだ。
ちびまる子ちゃんに登場するマルオくん。結構好きなんだよね。だいたい、彼がからかわれたりするのって、場の空気が壊れるときだと思うんだ。だけど、それでも「良いことは良い、悪いことは悪い。なにか間違ってますか?」って、意思を通しきっちゃう。歴史に残っている偉人って、こういうタイプの人もいるような気がするんだ。
今日も読んでいただきありがとうございます。食とは関係ない話だけど、これってちょっと大切なんじゃないかなって思える感覚なんだよね。この感覚、自分なりにうまく掴まえられたら良いんだけど、まだふうわりしてるんだよ。誰か言語化してくれないかな。