塩少々、とろ火でコトコト、ひと煮立ち。料理本ではよく見られる表現だけれど、これが定量的ではないのでわかりにくいという声もある。それはその通りで、例えば化学実験のそれと比べれば、ずいぶんと曖昧な「指示」なのだ。
だけど、長年この表現で成り立ってきたというのも事実。どのくらい長い年月かというと、日本なら料理物語という日本最古の大衆向け料理本からしてそうなのだ。17世紀に出版されたものなのだけれど、手順が書いてあるだけであまり「量」については触れられていない。それでも、料理を作ることは出来たし、どの程度の再現性があったのかはわからないけれど、かなりの人に読まれて後の時代に影響を与えるほどには、料理物語に掲載された料理が作られたことは間違いない。
料理人や日常的に料理をする人にとって、「とろ火でコトコト」は直感的にわかる表現で、特に問題などないのだ。
同じ日本語を話していても、うまく伝わらない。という事象は、あちこちで見られる。認知科学の領域ではスキーマと呼ぶのだそうだけれど、経験や知見を整理するための心の枠組み、つまり認識のための土台が違うからだという。
「シェフはジャーナルを書かない。それなら、どうやって情報を共有しているのか。」
とあるイベントでの話。
その方は研究者なので、知識の共有は論文というのが当たり前になっているのだろう。ぼくら料理人には無い発想だ。言われてみれば、知識の共有に関して体系だったものは無さそうだ。親から子へ、師匠から弟子へ、仲間から仲間へ、と人から人へと伝えられることが多いかもしれない。場合によっては、本だったり、今ならユーチューブだったり、テレビだったりが介在する。で、聞いたり見たりすれば、概ね想像がつくのが料理人同士の知識の共有のポイントなのだろう。まぁ、普段からやっていることだからそれなりに高い解像度で理解が出来てしまう。
受け取り側のスキーマによって、受け取る情報の理解度が変化する。そういうことなのだろう。
一方で、他に表現のやりようがない、というのもある。塩少々を◯◯産の塩を◯gと記載したところで、じゃあ湿度による重さの変化は考慮しないのか、他の食材との相性はどうなのだということになる。細かく表現すればするほど、その他の部分もどんどん細かくせざるを得ない。そうなると、それが用意できないから作れないなどという自体に繋がるかもしれない。
だから、ある程度曖昧にしておいて、完全なる再現性を求めないことにする。そういう世界線。量子力学で考えたら間違いだらけのニュートン力学だけれど、日常生活においては古典物理のほうが使いやすい。というのと、似ている。
法律を記すための日本語、化学を記すための日本語、スポーツを記すための日本語などなど。同じ日本語だし、読めばちゃんと読めるのだけれど、読む人によって理解度に差があるのが言語表現というものなのだろう。
だから、誰かが通訳をする必要がある。いろんな立場で解説することが出来る人。多少厳密さを欠いてでも、核の部分を要約して伝えられる人。
シュンペーターのイノベーション理論にもあるように、イノベーションには領域を越えたコラボレーションが必要だ。だが、領域を越えたときには言葉が通じない。通じるのだけれど、理解が難しい。これらを組み合わせれば、必然的に「通訳者」がイノベーションには欠かせないということになるわけだ。
よく、ビジネスシーンでも「趣味」や「教養」が大切だと言われるけれど、それは異なる領域の言葉を理解するのに役に立つからという側面もあるからなのだろう。相手の概念を理解するための助けになるのだ。
越境者は、自らが越境するために通訳者としてのスキルを獲得するか、通訳者を仲間に引き込むか、が必要になるのだろう。
今日も読んでいただきありがとうございます。食の世界において、たべものラジオやぼく自身が通訳者の役割を果たせると良いな、とは思うんだよね。今は人文系に偏っているけれど、それでもこんなに文献学習をしている料理人って、ほとんどいないはずだから。結構レアだと思うんだよなぁ。