「掛川ガストロノミーシンポジウム」まで残り10日を切った。
なんでまた、こんなに面倒なことをやり始めちゃったんだろうな。と独りごちるのだけれど、自分の意志で決めたことなんだからしょうがない。準備は大変だし、お金がかかる上に儲からない。それどころか、このままだと赤字だ。
やりたい。という情熱はあるのだけれど、それは感情的なものだけじゃない。ゲームをやりたい。サッカーをやりたい。絵を描きたい。旅行に行きたい。というような、感情に突き動かされる類のものじゃなくてね。
ガストロノミーやるなら、真剣に地域の食の課題を考えるっていうんだったらさ。ここから始めなくちゃしょうがないでしょう。という動機があって、誰もやらないからやろう!というような感覚。きっとやったら楽しいだろうしね。
ビジネスとしてちゃんと収益があることはとても大切。二宮尊徳も「経済なき道徳は寝言」だって言っているしね。だけど、一方で「道徳なき経済は犯罪」だとも言っている。じゃあ、「道徳を語った体裁で経済行為を推進する」のは何だというのだろうね。
残念だけど、そういう事業が実は大手企業や行政が一緒になって「良いこと」と信じ切って遂行している事例も少なくない。
日常生活や仕事の中で感じた不便や理不尽さ。それを改善しようとして立ち上がる。で、いろいろと勉強したり調査したりする。そうすると、考えが変わったり深まったり、思いが強くなったりして確固たる信念になっていく。
起業家の人たちに出会うと、そうしたストーリーに触れることが多い。
その人が、それを行うべき土壌があり文脈がある。だから納得感がある。
別に納得なんてしてもらわなくても事業はできるのだけれど、でも応援してくれる人は確実に減るよね。事業を起こしていくときには、一人じゃ絶対にできなくて、誰かの応援が必要なんだ。究極的には虚構でもいいから、信じられる何かが必要なんだろうね。このあたりサピエンス全史を想起する話だ。
とある業界が地域から消滅しかかっている。救済の嘆願がある。とはいえ、行政にそれをなんとかする力も知恵もないから、地域の有力企業に話を持ちかける。やるのはいいけど、それ儲かるの?どうせやるなら利益が出なくちゃいけないよ。
一見して正論なのだけれど、この流れのどこにも「語れる情熱」がない。どうして救済したいの?それ自体にどんな執着や情念があるの?と問われたら、どう応えるんだろうか。キレイに言語化されていなくたって、熱量のある人は語れるんじゃないかな。
経済界の偉人たちは口を揃えてこう言うよね。失敗しない最大の秘訣は諦めないことだ、とね。儲からない時期があっても、失敗が続いても諦めずにいられるのは、泥臭い根性論になっちゃうと思うんだ。もう少しだけ諦めずに続けたいと思うから、必死に考えるし必死に助けを乞う。そういうことでしょう。
儲かる儲からないというゲームだったら、ぼくはヘタクソなんだと思う。だけど、簡単には諦めない。少なくとも、利益が出なかったからスパッと辞めるということは、まずない。局面的に損切りをすることはあっても、情熱を傾けたものには執着するからね。
少なくとも現時点でシンポジウムの意義やそれに傾ける情熱を理解してくれている人がいて、それなりに動いてくれる人達がいる。協賛金を提供してくれたり、遠方からわざわざ現地まで参加してくれたり。儲かるわけでもないのに「良いね」という感情でこれだけの人が反応してくれているんだ。
どっちが良いのか知らないけれど、ぼくはこっちのほうがずっと気分がいい。本業との兼務でカラダもアタマも疲れているけど。すこぶる機嫌よく仕事ができる。
今日も読んでいただきありがとうございます。二宮金次郎が重視した「芋こじ」は、話し合い。たらいの中で芋同士がぶつかり合って、たらいから飛び出した芋があったら戻して、そのうち芋は傷つくことなくキレイに磨かれていく。そうした中から、内発的な意欲が生まれてくるんだよ。
個人的にはすごく興味があるんだよね。参加したいとは思うけど、予算が下りないからなぁ。とか言っているのが行政の現場。個人的な興味なら、自腹で参加したらどうだろうね。同じ立場の人で県外から来てくれる人いるよ。ねぇ、聞いてるかい?