今日のエッセイ-たろう

私たちの感じる「食の価値」ってなんだろう③ 2024年10月8日

マズローによる「欲求5段階説」というのは、けっこう有名なので知っている人も多いだろう。欲求には5段階あって、低次元の欲求が満たされると一つ上の階層の欲求を満たすための行動に出るという考え方。

生きるために必要な衣食住が得られるようになると、今度はそれらを安定して受け取れるようになりたいと頑張り始める。それが出来るようになると、誰かに愛されたいとか公平に扱われたいとか思うようになって、所属する集団の仲間を大切にしようとする。「衣食足りて礼節を知る」なんて格言があるけど、そういうことなのだろう。

「生理的な欲求」として、衣食住や繁殖や健康がある。その上に快適な環境を得たいという「安全欲求」がある。この2つは物質的な欲求にカテゴライズされる。そして、「社会的欲求」とか「所属と愛の欲求」と呼ばれるような、集団の一員として認められたいとか友情や愛情を求める感覚があって、それらが成就すると「承認欲求」が現れる。最終的には、自分らしく生きたいという「自己実現欲求」へと移行していく。後半の3つは精神的な欲求にカテゴライズされる。

現代社会では、基本的に社会的欲求からあとの欲求が多い、といかそこから始まるという感覚がある。学校や会社の中でうまくやっていくとか、その集団の内外からスゲーと言われたいとか、そんな話をよく聞くから。それに、現在の日本社会で動物的な意味で「食料の獲得が困難」という状況はほとんど無いし、流通している食べ物が安全かどうかわからないということもほとんど無いと思うのだ。大抵の場合は、物質的な欲求は満たされた状態で暮らしている。こういうところには、物質文明的な産業がいい仕事をしてくれているのだろう。

さて、マズローの欲求5段階説に無理矢理「食」をあてはめてみるとどうなるだろう。まず、物理的欲求はわかりやすい。「生理的な欲求」では、腹が満たされることだし、必要な栄養素を摂取できて、健康維持に貢献することだ。「安全欲求」は、健康に害がないことだったり、食料を安定して獲得できることだったりする。

では、「社会的欲求」「所属と愛の欲求」となると、どういうことになるだろう。このあたりからは精神的なものだろうから、食で言えば「共食」とか「儀礼の食」だろうか。神代の時代から、食を分かち合う者を仲間と呼んできたし、神と食をともにすることで一体化することを饗宴に取り入れてきた。それから、貴族や武士は政治的な意図を持って、部下が上司をもてなすスタイルの宴会をセッティングしてきたことも該当しそうだ、

となると、「承認欲求」は上記とは立場の逆転した宴会が当てはまりそうだ。例えば平安時代にみられる大饗。藤原氏の一族から左大臣が輩出されたとかの理由で、関係する貴族を宴に招待する。びっくりするような料理と部屋の設えに遭遇した人々は、さすがは藤原だという権威を感じる。座のなかには有名人や位の高い人物が招かれていて、そういう人が場にいることそのものも承認欲求を満たす仕掛けになっていたかもしれない。そして、その場に同席した人々は「特別に招かれた」という自負をもって、仲間意識を醸成しただろう。

ここまでは、なんとかそれっぽい話になりそうなのだけれど、「自己実現欲求」はどうだろう。食べる立場として「自分らしさ」を求めるということは、思想や美学のようなものが優先されそうだ。もしかしたら、ベジタリアンというのは「自分らしさ」の追求にも当てはまるのか。何を食べて何を食べないということは、自分らしい選択に通じるから。宗教的なものは別だろうけれど、マイルールを設定して準じるようなところがある。

マイルールという意味では、料理の食べ方も該当しそうだ。大正時代から昭和にかけて、数寄者や美食家が「握り寿司というものはこのようにして食べるべきだ」などという思想を語っていたという。ネタはこの順番がベスト、手づかみが最上、醤油の付け方から口にいれるときのスシの傾け方までいろいろとうるさい。握り寿司のルーツを考えれば、しょせんは庶民のファストフードなのだから、細かなこだわりなどちゃんちゃらおかしいのだ。おにぎりやハンバーガーに食べ方の作法があって、こうあるべきだと言っているようなものだ。個人的に、とても違和感があってあまり好きじゃないのだけれど、これを「マイルール」と捉えると腑に落ちる。

ヨハン・ホイジンガの『ホモ・ルーデンス 人類文化と遊戯』によると、遊びとは「限定された空間でのみ通用する厳格なルール」が必要なのだという。例えばサッカー。決まったフィールドの中で試合終了までの間は手を使ってはならない、という厳格なルールが存在する。このルールを蔑ろにすると、もうサッカーは遊びとではなくなってしまうし、楽しさも無くなってしまう。

そもそも、遊びというものは、その行為自体が面白いからやるのであって、何か社会的価値を得るためにやるものじゃない。結果として別の価値が得られることもあるけれど、まず第一に遊びの行為そのものが意味もわからずに面白いから遊びなのだ。

これを念頭に置くと、美食家が主張したマイルールは、遊びのルールを提案していたとも言える。いや「粋であること」「通であること」をゴールとして設定して、それぞれの「粋」や「通」を主張し合うという遊びでもあっただろう。遊びなのだから、あまり本気にして「マナー違反」だとか「わかっていない」というのは興が削がれる。主張し合っていた人たちは、互いの意見をぶつけ合ったり批判をし合ったりする行為そのもので遊んでいたのかもしれない。

だとすると、だ。これは中々高度な遊びである。というのも、これは和の伝統的な美意識や、食文化における思想哲学、禅とそれに列する茶の湯など、いろんな基礎教養があってはじめて成立するのだ。文脈を知らないと、そのマイルールがなんの暗喩になっているのか、どんな意図が込められているのかがわからない。

わかりやすくするためにスポーツに置き換えてみよう。たとえば、サッカーでは「手を使わない」と「枠の中にボールを入れる」というルールがあるわけだけれど、それ以外のルールについて全く知らなかったとする。知らないと、正直見ていても面白くない。日本では競技人口が少ないアメリカンフットボールは、観戦者も少ないらしいのだけれど、これも「わからない」が原因じゃないかと思うのだ。

ルールだけじゃない。お作法というか、プレーの一つ一つの意味がわからないということもある。サッカーのテレビ中継では、得点につながらなかったが惜しかったシーンについて、サッカー選手などが解説をしてくれる。「◯◯選手がここで囮になってくれたことで、空いたスペースに別の選手が侵入することが出来たんです」などと聞いて、ほうほうなるほどと面白くなってくる。解説がなくても気がつくことが出来たら、試合中のプレーの意味がわかるし、選手のいともわかるようになってとても面白いはずだ。

つまり、ルールを含めてその「遊びについて知っている」ことが、遊びを楽しいと感じる土台になっている。本当は、誰でも参加できるほどの気軽さがホイジンガの言う遊びなのだとは思うのだけれど、精神性の高い遊びはそうはいかない気がするのだ。遊ぶためのリテラシーが求められる分野があって、その遊びでは知識が遊びを面白くしていく。面白いからこそ遊びになり、共感する人たちが集まってきて遊びの和が広がっていく。

今日も読んでいただきありがとうございます。高度化した遊びはプレイヤーが少なくなってしまうんだよね。余計なルールや概念が追加されて、コアなファンほど「こうあるべき」を語りがちだから。もっと純粋に「食の遊戯」に興じられるような環境が作れると良いと思っていて、たべものラジオはその一助になれば良いなとも思っている。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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