1853年、江戸湾入口の浦賀沖に真っ黒な外国船が現れた。マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍の艦隊、通称“黒船”である。江戸幕府は大慌て。その狼狽ぶりは「泰平の眠りを覚ます上喜撰、たった四杯で夜も寝られず」と皮肉たっぷりの狂歌に謳われている。実はこの狂歌でうたわれた上喜撰とは、宇治の高級茶のブランドなのだ。ペリー艦隊が茶を求めたという話は聞かないが、その後の茶産業とアメリカの関係を暗示しているかのようである。
日本ではコーヒー文化のイメージが強いアメリカ合衆国は、実は建国前から茶に親しんでいた。なにしろ、紅茶の国イギリスの植民地だったのだ。ただ、イギリスから独立するに当たって、イギリスから紅茶を購入することを強く拒んだという経緯があったというだけのことである。
日本茶輸出の幕開け
日本からアメリカへの茶の輸出は長崎から始まる。油問屋の長女大浦慶(おおうらけい)は16歳の時大火に見舞われるが、お家再興のために海外貿易を模索する。1853年、欧米の紅茶ブームを知った彼女は、オランダ語通詞の品川藤十郎の協力をえて、オランダ商館員に嬉野茶の見本を託しイギリス、アメリカ、アラビアへと送った。
1858年、日米修好通商条約によって長崎港が開港されると、外国商人が長崎へと押し寄せた。そんな中、見本を見たというイギリス人商人ウィリアム・J・オルトは、1万斤(およそ6トン)の茶を注文したのである。大浦慶は各地から茶葉をかき集めてアメリカへと輸出を行うと、これを機に自宅裏に製茶工場を建設し、さらに九州各地で茶の増産を指揮したのだった。こうして、九州は茶の一大産地へと成長していく。
高林謙三にとっての医学の師、佐藤尚中が長崎伝習所でポンペから近代医学を学んでいる頃の話である。
アメリカのお茶事情と躍進する日本茶
その頃、アメリカでは、イギリス紅茶から解き放たれたことで緑茶や烏龍茶などが輸入されるようになっていた。庶民のコーヒーに対して、茶は中産階級や富裕層の洗練された飲み物として捉えられ、中でも緑茶はその象徴的存在となっていた。やがて、中西部で経済成長が進むと新たな中産階級が生まれ、緑茶マーケットが拡大していったのである。70年代になる頃には、太平洋を横断する蒸気船航路が機能し始め、緑茶は主な貿易品目のひとつになった。
最初は中国産の緑茶が主流だったが、日本茶が徐々に伸長していく。60年代、日本茶はアメリカ輸入茶の10%程度を占めていたが、90年代には40%へと成長していったのだ。
市場の評価は、味や品質だけで決まるわけではない。日本茶のシェア拡大の裏には、アメリカ社会の中国排斥運動があった。西部開拓の安価な労働力として中国移民を多く受け入れた結果、白人労働者の賃金定価を招いたとして排斥運動へと発展したのだ。アメリカ国内の中国人コミュニティが弱体化することで、市場競争力が低下していく。また、市民感情は”中国産緑茶は着色されており品質が信用できない”というイメージを生み出した。事実、着色は行われていたのだ。これに対して一般的に日本茶に対しては好意的だった。”中国茶は騙すために加工するが、日本茶はアメリカ人の好みのために着色加工する”とフィラデルフィアの茶商人は記している。おそらく、最初に出会った日本茶の印象がとても良かったのだろう。
しかし、不正茶は日本にもあった。横浜からアメリカへ緑茶を輸出する際にも、中国商人から学んだ技法を用いて着色を行っている。長崎と入れ替わるように勢力を伸ばしたのは横浜港から静岡茶だったが、急速にマーケットが拡大する時には、品質低下が起きやすいのである。燃料コストの少ない日干番茶を緑色に着色したり、柳や桑の葉を混ぜてかさ増ししたりするケースも見られた。
アメリカにおける中国茶の動向を知った静岡県は、1872年、本格的に不正茶の取り締まりを開始する。法整備を行い、監督するために茶業組合を組織した。また検査や摘発を行う一方で、製茶方法の指導も行っていったのである。何度か、ニューヨーク市場から締め出されそうになるものの、都度誠実な対応を積み重ねていった頃、高林謙三の発明による製茶システムが実用化されたのだ。
これまでの不正茶は、大量生産をしたいが手が回らず製茶品質が劣化するという流れだった。ならば製茶工場を設置し機械化を進めれば、高品質な製茶を大量に生産できるようになるのである。県の主導で共同製茶工場を設置させると、製茶マニュアルを策定し、伝習所を開いて機械式製茶を学ぶようにしたのだ。
高林謙三の夢が、静岡茶の新たな生産体制へと昇華した瞬間である。
アメリカ市場における日本茶の衰退
しかし、アメリカにおける日本茶人気は長くは続かなかった。工業出荷額で世界一になったアメリカは、再びヨーロッパに目を向けるようになった。「親の背を追う子供の心情に似ている」と表現したら叱られるだろうか、どこか文化的な憧れがあったのだろう。
また、ケチャップなどの登場でよりインパクトのある味が好まれるようになり、緑茶よりも紅茶のほうが相性が良かったということもあるだろう。更に、インド茶の大規模栽培が進んで、アメリカへ安価に供給されるようになったこともある。
そして1914年、第一次世界大戦が勃発して、日本茶のアメリカへの輸出は萎んでいくことになる。戦時には、安価で簡単に美味しく飲めるものが優位になる。ティーバッグを使って入れるセイロンティーは、砂糖とミルクを入れることで庶民に広まった。これに対して、高級志向の日本茶は入れ方によって味が変化するし、それなりのリテラシーを求められる。既に縮小し始めていた日本茶は、アメリカ市場における存在感を失うことになった。
新たなマーケットと新たな喫茶文化
静岡の茶産業は「アメリカに輸出するためのお茶」を作ることで大きく発展してきが、20世紀初頭になって輸出マーケットは消滅に近い状態になったのだ。このままでは静岡の茶産業は壊滅する。しかし、これほどの生産力を吸収できる市場が他にあるだろうか。静岡の茶産業が導き出した答えは国内の「日常茶」だった。それしか選択肢がなかったのである。
アメリカの高級茶市場から、日本の日常茶への大転換。都市の中産階級をメイン市場として商品を再設計し、家庭消費向けに味を整えたのだ。その圧倒的な生産量と生産技術、流通システムを活用して国内に茶の大量消費市場を見出した。そして、”日本人が毎日飲むお茶”という新しい文化が定着したのである。
茶産業は、その歴史の初期から”誰のために作るのか”を問い直されてきた。社会情勢が変わるたびに、イノベーションを繰り返して現代へと続いている。その流れは、今後も繰り返されるのだろう。