子どもたちにとっては、何かを覚えたりできるようになったりすることが遊び。というように見える。折り紙で可愛らしいネコを作ってみて、それが上手にできるようになればキャッキャと報告してくれる。幼稚園で何かを発見したり、新しいことを覚えてくると、それも一生懸命教えてくれる。僕の知らない友達の名前を含めて、状況やストーリーを含めて面白そうに語る姿を見るのは楽しいものだ。会社の報告だったら「結論から先に」と言われるかもしれないけれど、楽しことを伝えようとするときには、ストーリーになるものなのかもしれない。
学ぶことが負担になったり、つまらないものに見えるようになるのはいつ頃からだろう。幼稚園とか保育園の頃までは、あんなにも楽しかった「知る」ことや「できるようになる」こと。まだ、遊びと学びが区別されないころは楽しいのかもしれない。
ぼくは、たべものラジオのために勉強をしているわけだけれど、特に苦痛に思うことはあまりない。せいぜい、時間に追われるというか締切のような感覚があるくらいだけれど、それもさほど厳しいものじゃない。現在がそうであるように、間に合わなければ配信が遅れてしまうくらいルーズだ。
言ってみれば、ぼくは子どもたちが遊びの一環で「知る」を楽しんでいるように、読書や考察を楽しんでいる。子どもと一緒なのだ。それを、無責任にも色んな人に届けていて、楽しいと思ってくれるヒトに喜んでもらっている。なんとも幸せなことだ。リスナーさんは趣味仲間。と言っても良い。
学校に通っている頃、全員ではないけれど多くの人たちが勉強を「つまらない」とか「大変だ」と思うようになってしまったのだろう。そういうものだ、と言ってしまえばそうなのかもしれないけれど、何か原因というかポイントになるものがあるんじゃないかと思うんだ。
ぼくと子どもたちの共通点は、「自分が知りたいことを知ろうとしている」というところにあると思う。これを知りなさい、じゃなくて。これ、どうなってるんだろう。と勝手に疑問に思ったことを勝手にやっているだけなのだ。つまり能動的に学ぼうとしている。その時、誰かに教えてもらえれば嬉しいし、ありがたいと思う。知りたい気持ちがあるから、今なら学校の世界史の授業も楽しそうだ。正直、高校生がうらやましいと思うこともある。
面白そうだと興味を持つものだけを勉強していると、それはそれは楽しい。面倒くさいと思う人もいるかも知れないけれど、夢中になって走ったり山登りをしたり、麹を育てたり、釣りをしたり、山菜を取ったりしているのと一緒だ。だけど、小学生や中学生がそれをやるのは難しい。基礎的な読み書きや算術が疎かになりかねない。というか、知らないことが多すぎて興味が狭いかもしれない。知ると興味が湧く。リスナーさんの中にも、たべものラジオで食文化史に興味を持つようになった人もいるかもしれない。なんにしても、入口は必要なのだ。
学業から離れて久しい。ぼくらの頃とは学校教育もずいぶんと様変わりしているはずだ。もっと興味を持ちやすい環境を作っているのだろう。でなければ、学校を訪問したときにあれほど熱心な生徒がたくさんいるはずがない、と勝手に想像しているのは僕のの妄想だろうか。
今日も読んでいただきありがとうございます。幼稚園児のように学ぶ。これを継続できたら学校の授業も楽しかろうと思っている。大学教授に専門分野の話題をふると、酒とともに子供じみた笑顔で嬉々として語ってくれる。きっと根っこは同じなんだよな。そういう環境を作るにはどうしたら良いんだろう。