なにをやればどうなるかがわからない時代。というのが今の社会だ。というのは、もう多くの人が言っていることだし、ぼくも肌身で感じている。こんなときに必要なのは、マニュアルじゃないのだ。
うまい例えが思い浮かばないのだが。そうだな。掛川から東京に向かうならば、列車の時刻を調べてそれに乗れば良い。料金を調べて、用意すれば良い。というのがこれまでで、行先と方法が明確になっているので、どれだけ効率よくたどり着くことが出来るかが価値の基準となりそうだ。
海の上にポンと放り出されて、その船でどこか別の土地にたどり着いてください、と言われているのが現代。どっちに行けば「良い」のかわからない。そもそも「良い」なんてあるのかも疑わなくちゃいけない。でも、このままボーっとしていたら水も食料も無くなってしまうので、どこかで補給しなくちゃならないのだ。だから、どの方角に進むのがもっとも「筋が良い」のかを考える。そのために、周りを観察して、星の位置だとか風だとか海流だとかの情報から、良さそうな方向を見定める。で、あとは一か八か行ってみるしかない。
実際のところはどうなのかわからないけれど、今のぼくにとってはこんな感覚。歴史や社会の流れを見て、なんとなく筋の良さそうな方向に向かって挑戦するしかない。そんな気がするんだよ。ぼく個人の動きもそうだし、社会全体もそうするより仕方がないような気がしている。
個人のことだったら、ぼくがどれだけ「腹をくくる」かどうかだ。気持ちの問題。だけど、集団となるとそうはいかない。集団全体が「腹をくくる」には、ほとんどの人が「納得」していなくちゃいけない。合理性よりも何よりも、集団が大きく動き出すには「納得して腹をくくる」ことが重要だと思うんだ。とても情緒的だけれど、そういうもの。そもそも、民主主義なんてそうやってできているんだしね。
集団全体で納得感を得る方法は、とことん話し合うかだれかの言いなりになるか、かなぁ。みんなで集まって、みんなが納得できるまでとことん話し合う。ものすごく時間もかかるし体力もいるんだけど、どこかで妥協するんだよね。もう、こんなに話し合ったんだから意見は出尽くしたよね。ここらでいい塩梅のところに落ち着こうじゃないか。という感じ。
江戸時代の老中って、長いときは何日も何日も話し合ったんだそうだ。当然スピードは落ちるのだけれど、みんなで納得したことだからちょっとやそっとのことでは折れたりしない強さがある。
話し合っても全員が納得できる答えなんかでない。ってこともよくある。そのときに、誰かの意見にすがりたくなるという気持ちが湧いても、それは自然なことだと思うんだ。この人だったら良いよねという、よくわからない雰囲気の中での合意。ある意味で言いなりとも言えるし、人物に対する納得感とも言える。友達だったら、万が一失敗しても一緒に沈めばいいやって腹をくくれるような間柄。とかね。
とにかく、納得感のある合意形成ってめんどくさい。前者は民主主義で、後者は王政みたいなもんだけど。内容の話し合いに時間をかけるか、人物としての納得感に時間をかけるか、いずれにしても手間がかかる。日本の場合は、たぶんこのハイブリッドだから、もっとめんどくさいことになるわけだよね。
昨日も書いたけれど、筋の良い方向を見つけ出すのが現代の乗り切り方だと思うんだ。だとしたら、羅針盤のようなものが必要で、そのためには潮の流れを見るしか無い。点ではなくて、変化の流れを掴もうとするような感覚かな。虫の目、魚の目、鳥の目と表現されるけれど、魚と鳥の視点がとても重要になるってことね。
食材そのものの特性とか、現代の用いられ方などをつぶさに見る。過去から現代までの変化の流れを見る。各社会の違いを俯瞰して考察してみる。というのが、たべものラジオの大雑把な流れなんだけど、虫の目魚の目鳥の目を網羅するように構成しているんだよね。で、現代では魚と鳥が特に重要になりそうだから、そこを重点的にやっているんだ。そしたら、結果的に歴史が中心になっちゃったというわけ。
今日も読んでいただきありがとうございます。まぁ、ぼくが個人的に「変化の流れを俯瞰してみる」とか、「構造的に解釈する」のが好きだってこともあるんだけどね。ただの趣味嗜好ではあるのだけれど、思っていた以上に誰かの役に立つらしいんだよね。たべものラジオはこれからも楽しみながら頑張っていくし、もし個別に役に立てそうなことがあったらお仕事くださいな。