文化というのは、形があるようでいて実態がよくわからない。音や温度と同じように、伝えたり広がったりするには媒介となるものが必要だ。それは、人の考え方やその結果としての行動、そして人が作り出した物質だろうと思う。人がいなければ、当然のごとく文化は消失する。滅んだ文明が、どんな文化だったのかを知るには、その痕跡物から推測するより仕方がない。そう、推測するしかないのだ。
文化が消失するときって、どんなときだろう。とある集団から全ての文化がなくなるというのは、人が全員いなくなるときだろうけれど、一部が消えることだってある。それは、その文化を体現する人物がいなくなったとき。誰も継承しなければ、それは無いに限りなく近づく。そして、知る人すらもいなくなったとき、本当に消滅する。
基本的な生産物に関する文化は、その文化自体が生活インフラと直結している。それが消えるとしても、順番としてはあとの方だろう。どちらかというと、不要不急のものから消えていく。例えば「遊び」がそれにあたるかもしれない。遊びと言ってもゲームだけが該当するわけじゃない。歌や絵なんかも遊びの部分があるし、料理だって遊びの要素がある。
歌そのものが消えなくても、その中の遊びの部分が失われる。という部分的な消失もあるか。和歌そのものは継承されていくけれど、歌会とかそれに伴う宴みたいなものは縮小していくかもしれない。そう考えると、料理の遊びの部分もまた同様だろう。遊びもそうだけど、儀式とか意味性みたいな部分も簡略化されていって、次第に尻窄みになる。
本膳料理とか結納の儀式などがそうだ。現在、本膳料理専門店というのは、あまり聞かない。ニーズも少ないし、認知度がかなり低くなった。日本食文化における正餐なのだけれど、いつの間にか宴料理から派生した会席のほうが式典料理になった。そっちのほうが、カジュアルで良かったんだろうな。なるべく削ぎ落として、形式よりもカジュアルを重視、物理的にも精神的にも軽くしたいという意思が働いている気がする。
カジュアル化といえば、結納もどんどんカジュアルになっている。略式結納というのは、本来ならば仲人を含めた8名がどちらかの家か飲食店などに集まって執り行う結納式のこと。本式結納のように仲人が両家を行ったり来たりするのが手間なので、簡略したものだった。けれど、略式結納をもっとカジュアルにしたいということになって、仲人もいなければ結納式も行わないというケースが増加して、今ではそちらのほうが一般的になった。気がつけば、略式結納のことを本式だと錯覚している人が多数派になっている。結納後の食事会がメインになったし、そこで供される食事も本膳料理ではなく会席料理や洋食になった。
カジュアル化することが決して悪いわけじゃないし、社会の要請に合わせて変化していくものだと思う。ここで例示したのは、部分的文化の消失のケーススタディになると思ったからだ。何かしらの理由で消費行動が縮小すれば、提供する理由もなくなるし文化を維持するためのコストを払い続けることが出来なくなる。
発酵デザイナーの小倉ヒラクさんや、糀屋三左衛門の村井裕一郎さんとは、よく人の持続可能性の話をしている。食に関する持続可能性というと、自然環境が話題に中心になることが多いけれど、そもそも食料生産や文化を支えている職人たちが持続的に気持ちよく働き続けることが出来なければ、その産業は文化もろとも消失することになる。上記に例示した通り、消費がなくなることが最も直接的で影響が大きい。そう考えている。
経済的格差、全体の富の総量、可処分時間、文化水準、教育。いろんな要因はあるけれど、枝葉の部分から無作為に削ぎ落とされていって、気がつけば幹を切らなくちゃいけないなんてことになると、それこそ日本の食文化は転覆する。
それに、だ。枝葉を切るのだって、選んだほうが良いと思うのだ。無作為に枝を切り落としていっって、その木を離れたところから眺めてみたら、なんとも不格好ということになりかねない。農作物の間引きだとすれば、栄養状態の悪い幹だけを残したらちゃんと育っていかないし、次世代に繋がらないのだ。だから、「何を残したいか」をちゃんと見定めるという態度が大切だと思う。
米食文化は、そう簡単には消えないから100年くらいは残るだろう。もし、米の半分以上が外国産になったら、米の品質が変わったことで米を原料とする加工食品や、米を主体とした鮨などの料理はきっと姿を変える。今の握り寿司は、日本で生産された米を前提として成立しているからね。それから、徹底的に産業の効率化を進めれば味噌や醤油は、巨大工場で一括生産した方が良いということになるかもしれない。そうすれば、中小規模の蔵は淘汰されて、結果として市場に流通する味噌や醤油は数種類ということになるだろう。場合によっては、その工場も国内ではなくアメリカなどから輸入することになるかもしれない。
味噌や醤油はまだ良い。日本以外にも市場が広まりつつあるからだ。世界中を見渡してもこんなに万能な調味料は希少で、様々な地域が真似してきたくらいだ。もしかすると、国外への輸出商品として活路を見出していくことも出来るかもしれないし、日本で縮小したご飯と味噌汁という文化が他の国に引き継がれることもあるかもしれない。
納豆はどうだろう。同じ発酵食品だけれど、味噌や醤油と比べるとグローバル市場は小さいだろう。実際あるけれど、小さい。一番大きな市場は国内ということになるのだけれど、それが小さくなっていけば、食文化そのものが忘れ去られていく可能性も零じゃない。
何を残したいか。を考えるときに、本当はポジティブなことを想像したいのだけれど、実は案外難しい。どちらかというと今は危険信号が点滅しているときなので、「無くさないもの」を考えなくちゃいけないから、ディストピアを想像するのが手っ取り早い。そして、そうならないために、と知恵を絞るのだ。
今日も読んでいただきありがとうございます。文化だからね。効率がいいとか合理的だとかで判断しなくて良いんだよ。良いの。それは方法論を語る時に考えればいいから。心地いいとか嬉しいとか、寂しいとか、そういう感覚が一番大切なはずなんだ。だって、幸福でいられること、を命題としているわけでしょう。合理性というのは、そのための思考方法のひとつなわけ。僕の周りには少ないけど、この視点が苦手なビジネスパーソンがめちゃくちゃいっぱいいるんだよね。