「おいしさ」は長らく、情緒的な価値と考えられていました。しかし、最近の研究で「おいしさ」から導き出される幸福感が、健康効果もを持つという新たな側面に光を当てることになりました。
とある研究の記事の文章。
おいしいものを食べる。そうすると、幸福ホルモンである「オキシトシン」が分泌される。ウェルビーイング的に効果的。「体が健やかなだけではなく、体も心も元気で、社会との関係も良好である」というのがウェルビーイングと呼ばれる価値観だ。その観点で言えば、美味しいものを食べることは、健康的だと言える。
大雑把にまとめるとこんな話のようだ。
これに関しては、全く異論がない。まさにそのとおりだと思う。当店のコンセプトもほとんど同じ。おいしい食べ物、おいしい飲み物。それだけじゃなくて、空間の演出も含めて「幸福感」を高めることに意識を向けている。ホントは「誰と一緒に食事をするか」という要素も幸福感に影響すると思うのだけれど、飲食店としては関与できない部分。だから、それ以外の部分で幸福感に寄与できることをやれるだけやろうって考えているのだ。
こうした考え方は、最近始まったことではないのだと思う。ウェルビーイングとか健康といった文脈ではないけれど、心の豊かさという意味ではもっと古い時代から行われてきたことだと思う。日本料理でいえば、茶の湯や禅の考え方に登場している。鎌倉時代から室町時代にかけて形成された食文化である。
さて、これとは別に少し気になったのが序文である。「おいしさ」と「健康」は両立しないと考えられてきた。という表現。今回の研究でそれが覆ったと。あたかも、周知の事実のように書かれているのだけれど、それは本当なのだろうか。なんとなく違和感があるのは、ぼくだけだろうか。
食欲というものを科学的に考察した意欲作「科学者たちが語る食欲」という書籍を読んだ。動物にとって食欲とは一体何なのか。昆虫や哺乳類などを観察しながら、人間の観察へとフィードバックして検証していったという、とても興味深い研究の話だ。
これによると、動物が持っている「味覚」は、重要な栄養素を察知するためのセンサーである。タンパク質や脂質や炭水化物は、人間が生きていくために必要不可欠な栄養素である。ナトリウムが欠損すると、神経伝達に異常をきたしてしまう。だから、そういった重要な栄養素を見落とさずに、優先的に接種するための仕組みが体に備わっているというのだ。
ぼくの家族は、特に父が顕著なのだけれど、本能的に食べる食材を選択する傾向がある。なんとなく青い葉っぱが食べたくなる。少し苦味のあるものが食べたくなる。脂っぽいものがほしい時もあれば、避けたくなるときもある。その日の体調によって、味付けも変化する。ということは日常の食事で見られることだ。
しっかりと計測したわけでもないし、科学的なエビデンスがあるわけではない。もしかしたら、偏りがあるかもしれない。それでも、父はしっかりと健康だし(深酒をしなければだが)、結果的に食品の多様性は担保されている。
前述の「科学者たちが語る食欲」には、冒頭にオランウータンが登場する。オランウータンにとって、最も理想的な食品が存在しているらしく、それが潤沢に入手できる環境であれば、その食品だけを接種する。けれども、自然環境に暮らす彼らにとっては、常に同じ食品が手に入ることのほうが稀である。だから、それ以外の食品を雑多に食べるのだ。これを1週間以上調査をしてみると、驚くことに接種した栄養バランスは、実に理想的なものになるのだという。朝食に偏りがあったとしても、昼食や夕食でリカバリーされる。今日が偏っていても、翌日の食事を含めて平均値をとってみるとバランスが取れている。という具合だ。
動物の食事というのは、一回きりで完全なバランスを整えることは難しいということなのだろう。野生環境であれば、自然なことだ。どうも、健康食というと「1食のバランス」もしくは「1日のバランス」に注目が集まりがちである。しかし、そもそも動物はもう少し長いスパンで自動調整を行っている。
人類が農業を行うようになっておよそ1万2千年。生物の進化という視点でみれば、人にとっては短い時間だとされている。脳も肉体も、我々を形成するそれらは、いまだ1万年以上ほとんど変化していないのだそうだ。だとすれば、本能を発揮することが出来れば、むしろ自動的に健康な状態を維持しようとするのではないだろうか。体の声をちゃんと聞くことができれば、だが。
こうした視点で考えると、「おいしい」という概念が大きく変化してきているのかもしれない。本来、動物としての人類が感じていた「おいしい」と、現代人のそれとは異なる。現に、千年前の食事を調べると、美味しそうには思えない。けれども、その頃の日記にはちゃんと「おいしい」と記されている。これは、調理技術が未発達だと言うこともできるけれど、同時に味覚が変化したとも言えるのではないかと思うのだ。
確かに、平安時代の貴族は美食をむさぼるあまり、糖尿を患う人が多かったという。「おいしい」は健康を損なうリスクを持っているのかもしれない。ただ、それは「加減」の問題だろう。おいしいという感覚は、情緒的であるがゆえに、受け手によって違う可能性がある。甘さもしょっぱさも、そんなに濃くしなくてもちゃんとおいしい。そして、ちゃんと健康的。そういうこともあるのではないかと思うのだ。
今日も読んでくれてありがとうございます。昔はちゃんと出来ていた。と言うつもりはない。美食のせいで健康を損なった記録は、それこそ山ほどある。なんというか。「健康のために野菜を食べる。」というのに違和感があってさ。「おいしいから野菜を食べる」がベースにあって、それが結果的に健康につながっていくっていうのが、動物的な行動に合致しているような気がするんだよなあ。
少しずつ勉強を重ねて言ったら、もう少し解像度の高い考察ができるようになるんだろうか。とりあえず、今のところはこんなところかな。