元々、本が好きではあった。あまり自覚したことがはなかったけれど、一般的に本好きの部類には入るのだろう、と自覚したのはつい近年になってからのこと。ホントのところは、好きでも嫌いでもないというのが近い感触だ。その気になれば寝る時間を削ってでも読んでいるし、その気にならなければ全く手に取らない。
子供の頃は、よく読み聞かせをしてもらった。きっと多くの人が体験しただろう。寝る前はもちろん、新聞を広げた祖母の視線を遮ってまで絵本の読み聞かせをねだった記憶がある。物語が好きなんだろうな。小学生になって伝記物を読むようになったけど、それも小説を読んでいるのと変わらない気分だった。他のシリーズものの児童小説を読破するのと同じ感覚で、伝記物もシリーズ全巻を読破したくなった。で、気がついたら、卒業が近づくにつれて図書室の本はあらかた読み終わってしまい、そうなるとコレクターの感覚で「全部読んだ」という実績が欲しくなって、最後は半ば意地になって図書室の本を読み切った。
電車に乗るときには、だいたい文庫本を持ち歩いた。スマホはもちろんなかったし、ケータイは話すためのものだったから、電車の中ですることと言ったら読書くらいしか無いのである。たまの旅行なら外の景色を楽しむのだろうけれど、毎日同じ景色ではそれも飽きる。一人のときはだいたい本を読むしかなかったのだ。
こんな思い出を振り返ったところで何にもならないし、本なんか好きでも嫌いでもないと言っておきながら、こう言うのもなんだけれど。本には随分とお世話になったものだ、と思う。近年だけでなく、ぼくはずっと本に感謝しなければならない人間なのだ。
書籍を出版したことは無いので、どのようにして本が出来るのかを知らない。友人知人に書籍を出版した人がいるので、なんとなく聞いている程度。それも事後になって、あのときは大変だったと軽やかに笑うのだ。しかし、実際に読んで見れば「ちょこっと書いてみた」というレベルではないことくらいはわかる。映画館のチケット1枚分よりも安いというのは、ちょっとオトク過ぎるのではないかと思う。
本というのは、きっとその人のいろんな物が詰まっている。事前の準備や、個人の考え方や知見、発想、生き様みたいなものが反映されているのだと思う。言ってみれば、著者の一部を切り取ったようなものなのじゃないかと思うのだ。きっと書ききれなくてこぼれ落ちた話もいっぱいあるだろう。そう考えると、本という存在がますますありがたいものに思えてくる。
もし、武藤太郎の一日が販売されているとしたら、それはいかほどの価値があるだろう。もしかしたら講演会のような形になるかもしれないし、1日中料理を作ることになるかもしれない。ただ一緒にいるだけということに価値を感じる奇特な人がいるとは思えないが、まぁなにかしらの需要が仮にあったとしよう。あったとして、一体いくらになるのだろう。本が著者の一部を切り出したものならば、僕の一日も同様にぼくの一部を切り出したものだ。そうして比べてみると、友人たちに対する尊敬の念がますます強くなっていく。
明確に価値が価格として表現されている。これは、誰にでも出来ることではない。一定以上の人数が価値を認めない限り、商用出版など出来るはずもない。誰も欲しいと思わないものには価格はつかない。これは、誰かの一日を販売するとしたら買い手がつくというのと同じように考えれば、人気があるということ。この人の一部は面白い、と信じられている。信じるに足る実績がある。ということなんだろうな。
例えば、ある人の一日を買う。で、そのコストをみんなで割り勘する。講演会とか、〇〇と巡るツアーとかがそうだよね。本も似たような構造で、ちょっと時間差があるだけのこと。もし人間レンタルが1日5万円だとして、執筆が100日なら500万円。これを一冊に換算すると、1万冊で500円なんだけど、全てが著者の収入じゃないし、もっと色んな人の苦労が詰まっているわけだから、きっともっと高額になっちゃいそうだよね。
人間の価値なんてお金だけで測れるものではない。それはそうなんだけど、純粋に「個人として求められる」っていうのは、やっぱり凄いよね。
今日も読んでいただきありがとうございます。僕自身が価値を発揮して社会に貢献出来ることってなんだろうな。お金を払ってでも来てほしいと思える人って、どんなだろうな。属人的な価値に拘りすぎるのは良くないのだけれど、個人の人生を考えると指標の一つにはなるのかもしれないな。