今日のエッセイ-たろう

近代茶業を支えた意思。—高林謙三という選択

静岡の茶業は、いつから”工業”になったのだろう。工業化は時代の必然だったとはいえ、自然にそうなったのではなく、どこかの誰かが「必要だ」と感じたから始まったはず。形を変えながらも伝統産業が今も受け継がれているのは、そうした思いの結果だろうと思うのだ。
あの時、誰も動かなければ、もしかしたら日本の茶業は衰退していたのかもしれない。

茶業近代化の転換点に立った一人の医師、高林謙三の生涯を追ってみようと思う。もしかしたら、現代の産業の変化に対応するヒントが見つかるかもしれない。

明治を支えた茶業

明治期の輸出産業は第一位の絹に続き、茶がおよそ20%を占めていた。清水を出港した船は、日本の緑茶を乗せてアメリカへと渡る。1860年代に始まったアメリカによる日本茶の輸入量は増加し続け、80年代にはアメリカにおける輸入茶の日本のシェアは、40%を超えるほどにまで成長したという。

大量に輸出される茶の生産を支えたのは、言うまでもなく茶園の開発と生産者のたゆまぬ努力によるものだ。一方で、製糸業の工場化をなぞるように機械化が進められた。日本の製茶機械の開発に生涯を捧げた高林謙三。彼の功績は、今なお「高林式」の名とともに、現代の製茶機械の礎で有り続けている。

天保3年(1832)、現在の埼玉県日高市に高林謙三は生まれた。彼が志した道は医学であった。早くから漢方医術を学び、さらに佐藤尚中の元で西洋の外科医術を身につけた。川越で開業すると、川越藩主の侍医を務めるまでほどに医師としての実績を積み上げていったのだった。

謙三を医学から茶業界へと導いたものは何だったのか。

西欧列強と結ばれた不平等条約によって、関税自主権を持たない日本では安価な外国製品が流通した。これによって、国内産業は打撃を受け輸入額が増大することになったのである。これに対して、主要輸出品は生糸や茶などの農産物などが中心だったが、不均衡を是正するほどの力はなかった。

「国益のために、茶の振興が急務」

謙三の地元である川越は、室町時代から名を知られた河越茶(狭山茶)の産地。その茶は、漢方医にとっては薬なのである。彼にとって、茶産業は身近な存在だった。国の行く末を考え「進むべき道が見えた」と感じたのかもしれない。既に医師として成功を収めていた謙三は、その私財を使って林野を購入。開墾して茶園経営に乗り出したのだった。しかし、茶園が一つ増えたところで、輸出量が大幅に増えるわけではない。

時代は近代工業化へと向かっており、謙三が茶園を開いた翌年には、富岡製糸場が操業開始していた。それに影響を受けたのかは定かではないが「量産と生産コスト低減のためには機械化が必要だ。」と思いたち、自らの私財を投じて製茶機械の発明に乗り出したのであった。

受け継がれた意思と知識

1857年。オランダ軍医ポンペの進言によって、長崎に医学伝習所が設置された。「医師はもはや自分自身のためではなく、病める人のものである」というポンペの思想は、医療教育となって現れたのである。西洋医学を理解するためには、基礎科学から学ぶ必要がある。様々な医学関連科目とともに、高度な物理学や化学の講義も行われた。

明治初期の日本医療を支えた偉人たちは、ここで最先端の科学医療を学んだのである。その中には、後に順天堂医院を解説することになる佐藤尚中がいた。謙三は、佐藤尚中を経てポンペの意思と知識を受け継いたのである。そして、それは茶産業で生かされることになった。

試行錯誤の末、明治17年(1884年)ついに焙茶器械が完成。素人でも良質なほうじ茶を作ることが出来るうえに、焙じる際に茶葉が粉になって無駄になることがなくなった。焙茶器械は評判となりよく売れた。さらに蒸し器械と摩擦器械を完成さた。これらは、民間で日本初の特許となった。

近代工業化への道標

理想は全自動の製茶工場。それが生産量を飛躍的に伸ばすことは、アメリカで開発された小麦の製粉工場の事例でも明らかだった。明治19年、謙三は医師を辞めて自立軒製茶機械を開発に没頭すると、翌年にこれを完成させた。機械の完成を知った埼玉県令は農商務省に報告し、機械の使用講演会を開催させる。これに、日本各地から数千人が参加するという盛況ぶりだった。その後、各地から機械の注文が入り、本格的な機械化への転機となるはずだった。

ところが、事業は順風満帆とはいかなかった。自立軒製茶機械に不具合があり、購入者から多くの苦情が寄せられたのである。当時、謙三が関わっていた埼玉製茶会社で製茶したお茶まで返品される事態へと発展。機械代金を払ってもらえず、丹精込めて育ててきた茶園を失ってしまったのである。

さらに、この年高林家は自宅を火災で失っている。心身の疲労がたたったのか肺を患ったまま、貧困の中でも家族の支えを受けながら機械の発明を続けた。努力が認められたのか、農商務省のはからいで東京に研究用製茶工場を設置すると、明治30年(1897年)、ついに茶葉粗揉機を完成させたのだった。従来のものよりも4倍の製茶能力があり、味や香りも損なわないという画期的な発明である。日本一の茶師ですら、その性能を知ると謙三の元を訪れ機械を購入したという。

製茶機械の生産体制

既に高齢だった謙三に代わって製茶機械を生産したのは山下伊太郎と松下幸作だった。山下は茶業組合検査員であり、松下は25歳の若さで小笠郡の茶業委員に選出されたホープだった。当時、製茶作業は各農家が手作業で行っており、地域全体で見れば生産効率が悪かった。そこで、松下は村の有志とともに共同販売組合南山社を組織し、製茶販売を集約したのだった。

明治31年(1898年)、山下らは謙三に機械を注文すると、その後も度々謙三の元を訪れた。やがて、山下と松下は製茶機械の販売特約を申し出てて、静岡県の製茶機械は彼らが行うことになった。翌年には、機械制作に関する特約を結び、松下は静岡県掛川市西町に「松下工場」を設立。謙三は、機械製造の相談や、製茶機械に焼印を押すために松下工場を訪れることになった。2度目に掛川を訪れた時、謙三は脳溢血で倒れてしまう。そこで、謙三は家族を呼び手厚い介護を受けることになったが、元通りの体に戻ることはなかった。

松下は、設備拡張のために菊川市堀之内に工場を移転すると、工場の近くに謙三家族のための住まいを新築した。その後、体調の良いときには工場の機械を眺めたり、製造の相談を受けながら過ごしたという。
「茶の量産」を実現する製茶機は、粛々と製造されていく。そんな光景を見て、謙三は何を思ったのだろうか。やり遂げた達成感と日本の茶業の未来に思いを馳せながら、謙三は菊川で息を引き取る。明治32年4月、享年70歳であった。

このあと、茶業は近代工業的な産業へと転換していく。その大きな流れの中で、高林謙三が果たした役割は大きい。まさに、「お茶の工場」を作り出したのだ。現代的な言葉を使えば、フードテックの領域でイノベーションを起こした、と言えるだろう。その意思は引き継がれ、静岡県は誇りをもって日本を代表する茶産地へと成長していくのだった。

今日も読んでいただきありがとうございます。

この時代の人たちって、「国のために」っていう熱い思いで動く人たちがいるんだよね。高林謙三だけでなく、中條景昭や多田元吉もそう。「国のために」っていうと国粋主義みたいに聞こえるけど、それが本質じゃない気がするんだよね。自分にとってもみんなにとっても良いことだと信じ切るチカラ、みたいなエネルギーを感じるんだ。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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