今日のエッセイ-たろう

文化財という、経済合理性だけで測れないものの価値を考えてみる。 2023年6月17日

今年、母校である掛川第一小学校が創立150周年をむかる。創立は明治6年。実は、去年から今年にかけて150周年の節目を迎える学校は全国にたくさんある。明治5年、学校制度が定められた法が発布された。いわゆる学制だ。このときに出来た小学校の一つが母校なのである。

小学校の近くには、大日本報徳社という重要文化財がある。二宮金次郎の教えを受けた人が創立した学び舎で、地元住民らが集まって自分ごとのまちづくりを牽引したのだ。その大講堂ができたのが明治36年だ。それよりも30年も早くからあるというのだから、長い歴史を感じる。

報徳社のように当時の建物が残っているわけではないから、実際には体感しづらいところではあるのだけれど。

どうも僕らは「伝統」とか「歴史」といったものを「体感」するときには、カタチが必要らしい。例えばピカピカの新しい建物を見せられて、その学校が150年続いていると言われてもピンとこない。伊勢神宮では20年ごとに式年遷宮が行われる。つまり、20年ごとに新品の建物に変わる。その神社が、とんでもなく長い歴史を持っていて、ずーっと続いてきたことは知っている。頭では理解できるのだけれど、ピカピカの建物を前にすると、少しばかり拍子抜けしてしまう。という感想を聞いたことがある。たしかに、そうかもしれない。ぼくらはマテリアルから得られる印象に影響を受ける。

古ければなんでも価値があるわけじゃない。そこまで古くなくても価値があるものもある。価値があるかどうか、なんてそれぞれの時代に生きる人間の解釈次第なんだけど。だから、明治時代には廃仏毀釈で貴重な寺院が薪にされてしまったわけだ。なんともったいない。

どこかに、ぼくらの社会が時代を超えて「これは価値がある」と感じるポイントがあるのだろうか。

市の事業で、文化財を保存管理して活用していくことを推進しよう、というものがある。掛川市だけではなくて、あちこちの地方行政が取り組んでいるのは文化庁が旗振りをしているからだ。で、しばらく前から、その計画書の策定員会に参加している。

そうしたことをしていると、「そもそも文化財とはなんだ?」という疑問がムクムクと湧いてくる。色々と事例を並べて、みんなで眺めているととても面白い。「これは該当するよね」とみんなが直感的に信じられるものもあれば、意見が分かれるものもある。一般的な定義はあるのだけれど、それはそれとして「自分たちなりの文化財」というものを再定義してみようということになった。実際は、全くまとまっていないのだけど。

言語化しようとすると、なかなか難しいのだ。古墳とか遺跡は、学術的な意味があるよね。古文書も貴重な資料。じゃあ、歴史的な有名人の生家とか、報徳社はどうだろう。報徳社などは、建物自体が貴重な歴史資料にもなる。だけど、貧しい農村の家から身を起こしていった有名人の生家は、ただの古い農家。有名人を輩出していない古い家は、文化財になり得るのか。という疑問が残る。

たぶん、文化財にはなりにくい。ならないとは言えないけれどなりにくいだろうとは思う。資料的な価値だけだったら、他に代替されるものが存在した場合には、取捨選択されてしまう可能性があるだろうから。オンリーワンの価値ということになると、やっぱり物語性になるのだろうか。それこそ、先述のように有名人が住んでいたとか、歴史の転換点になったとか。

ただの石でも御神体になることがある。と言う話を聞いたことがある。石そのものには特別な価値がなかったとしても、人々が価値があると信じて、長い間拝んだり祈ったりし続ける。そうすると、「人々の信仰によって崇められた」という別の価値が生まれてくるのだ。

そうなると、数百年前のものではなくても文化財になるかもしれない。行政が指定するかどうかは別として、その地域の人達や関わる人達にとっては大切なもの。そういう意味で文化財になりうる。

小学校の門柱みたいなものも、もしかしたらその一つかもしれない。ただ、そこにあって、学校の標識としての機能を持っているだけのもの。なのだけれど、入学や卒業などの節目に、多くの人が記念写真を撮る。すっかり忘れてしまっても、思い出のアルバムの中にある写真を見た時や、門柱の前を通ったときに思い出す。そういうものなのだろう。

母校の門柱は、安全性に問題がある。とても立派で、少なくとも100年近くの歴史があるのだけれど、鉄骨が入っているわけではない。毎日子どもたちが通る場所だから、地震災害を考慮すると何かしらの対策が必要だ。さて、既存のものに鉄柱を埋め込むのが良いのか、それとも撤去して新しいものに建て替えるのがよいのか。安全と文化財の間で揺れている。

今日も読んでくれてありがとうございます。何を残したいか、なんだろうな。経済合理性みたいなものとは別の指標。多くの人が、残したいと思うかどうか。未来になって、あの時壊さなければよかったと言われる時が来るもしれない。考えるときりが無い。全部を残したら文化財は増え続けて、いずれ保護する予算が膨大になるだろうし。どうするのが良いかなあ。

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武藤 太郎

1978年 静岡県静岡市生まれ。掛川市在住。静岡大学教育学部附属島田中学校、島田高校卒。アメリカ留学。帰国後東京にて携帯電話などモバイル通信のセールスに従事。2014年、家業である掛茶料理むとうへ入社。料理人の傍ら、たべものラジオのメインパーソナリティーを務め、食を通じて社会や歴史を紐解き食の未来を考えるヒントを提示している。2021年、同社代表取締役に就任。現在は静岡県掛川市観光協会副会長も務め、東海道宿駅会議やポートカケガワのレジデンスメンバー、あいさプロジェクトなど、食だけでなく観光事業にも積極的に関わっている

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