夏になると、あちこちで花火大会が行われる。ちょっと大きな大会になると、地元だけじゃなく遠方からも多くの方が見える。この暑い中ご苦労なこった、と独りごちるのは、そこに行くことが出来ない身上からの負け惜しみだ。なにはともあれ、花火大会に多くの人が集まれるようになって良かった良かった。
花火とくれば浴衣にうちわというのは夏の風物詩である。家の前からカランコロンと軽やかな音を立てて夕涼みをしながら歩くのは、なんとも風情があって良い。そんな幼少期の記憶があるのだけれど、いまではそうもいかないのだろう。とにかく暑くて、夕涼みどころではない。それに人数も圧倒的に多い。半世紀もたたないうちに、多くの人がひとつの花火大会に集まるようになったものだ。
電車に乗ってどこかに行くときには、きまって洋服か着物だったと思う。近所の花火大会や盆踊りなどでは浴衣を着た祖父母とともに、ジンベエを着てはしゃいでいたのだが、それは近所だからだった。何かの用があって、出かけなくちゃいけないときは浴衣から着替えをしたものだ。考えてみればあたり前のことで、例えば旅館の浴衣でちょっと散歩するくらいなら構わないけれど、レストランに行くのは少々憚られる。浴衣っていうのは部屋着なのだから、それが自然だったのだろう。教えられたと言うよりも、祖父母の振る舞いから、自然にそう思うようになっていた。
時々、浴衣のまま電車に乗って出かけてしまうツワモノもいる。浴衣でタクシーにのって出かけていき、ちょっと雰囲気の良いラウンジに入ろうとして入店を断られている姿を見たことも有る。なんとなく、そうだよなと思う人もいるだろうけれど、これが花火大会となるとまかり通るから面白い。
ちょっと遠くても「浴衣で花火」を楽しみたい。そんな気持ちがそうさせているのだろう。となると、浴衣を作る方も考える。じゃあ、流石に寝巻きや部屋着のような浴衣じゃみっともないだろう。外出着っぽく着飾れるものがあったほうが良い。なんて具合に、工夫されてよそ行きの着物のように変化していく。そうすると、それまで「浴衣で遠出なんて」と思っていた人も、「最近の浴衣、ちょっと良いかも。」となっていく。気がつくと、浴衣で電車に乗ることくらいは「当たり前」のこととして受け入れられるようになるのだ。
そもそも、服装などというものに敏感な人でも、TPOに気を使う人は少ないのかもしれない。ぼくがそうであるように、周囲の大人たちの振る舞いを見て判断しているに過ぎない。スーツの何がフォーマルで何がカジュアルなのかを知ったのは、営業で外回りをする頃になってからのことだ。ちゃんと学べば、ルーツと理由があることがわかる。けれども、周囲の状況によって様々に変化するのもまた文化と言える。
つまりは、「本当のこと」を知らない人のほうが、新たな文化を作り出すのだろう。それが良いことかどうかは別の話だし、知っていたほうがイノベーションとしては精度が高いと思うのだが、それでも「知らない」は新たな流れを作り出す。経験に学ぶというのはそういうことだ。
そば切り、握り寿司、天ぷら、うなぎ。これらのファストフードが高級化してコース料理になったのはいつの頃だろう。来歴を知っていて、あえて変化を加えていったのか。それとも、知らなくて変化したものなのだろうか。近年では高級コース料理におでんも仲間入りすることが有るらしいし、高級ハンバーグなどという出自とは無縁の発展を見せる食文化も有る。
あくまでも想像だけれど、知らないのではなくて、あえてやっているという気がしている。そこに特別な思い入れがあったり、工夫があるのだ。そして、少しばかり滑稽にみえるかもしれないけれど、それを楽しみつつ、そうじゃなくなる世界を見ようとしている。
今日も読んでいただきありがとうございます。ずっと変化し続けていて、とどまることがない。文化ってそういうところが面白いと思うんだ。ルールでがんじがらめにするよりも、面白がっているくらいのほうが、かえって本流のルーツを守ることに繋がるかもしれないよ。