はたらく細胞ってアニメ作品、面白いよね。体の細胞が擬人化されていて、それぞれにどんな働きをしているのかがわかる。とってもわかりやすい。時々、細胞の働きについてワイプで説明が登場するんだけど、しっかり読みたくなってしまう。マンガなら良いのだけど、アニメの場合は目の移動が追いつかないので静止ボタンを押してしまう。
あの作品をみていて、スイミーを連想したんだ。知ってるかな。絵本のスイミー。
ちっちゃい魚のスイミーが、仲間と暮らしていた。仲間は赤くて、スイミーだけが黒。あるときおっきな魚に襲われて、仲間はみんな食べられてしまう。スイミーは泳ぐのが速かったからね。で、あちこちを旅して仲間そっくりの魚の集団に出会う。怯える彼らを説得して、魚のカタチに群れを作って大型の魚に対抗する。自分が目になって。
という話。
話の内容はさておき、「別々の個体が集合して、あたかも一匹の巨大な魚の様に振る舞う」というのが、連想されるんだ。
体内の数十億個の細胞が、それぞれに活動する。もちろん、アニメのような自由意志を持っているわけじゃないけれど。それでも、それぞれの役割に分化して活動をするわけでしょう。ぼくがぼくの細胞をどう使うかを考えたことはないし、脳みそがそれを思考して指示を与えているわけじゃないんだよね。これって、どんな思考が働いているんだろうって。
食べ物を体に入れるとそれは分解される。糖質はエネルギーになり、脂質は潤滑剤とエネルギーになり、タンパク質が細胞を生成する。タンパク質は、アミノ酸に分解されて、もういちどタンパク質に組み立て直すよね。レゴみたいだ。車の形をしたレゴを分解して、家とかベッドとかに作り変える。体の中でそんなことが行われているんだけど、この振り分けって誰がやってるの?いや、そういう役割の細胞があるのは見たよ。どういう意志が働いているの?
そんな考え方をすると、なんだかふわふわしてくる。もちろん科学的な解釈の方が強いから、一時的なものなんだけどさ。この一時的な感覚を味わうのも楽しいんだ。
腸内環境を整えるって言うじゃない。あれも不思議だよね。腸内に生き物を飼っているんでしょ?水槽の中にいろんな小魚が泳いでいて、水草も入れて、エビとかも入っていて。その水槽の環境を整えるっていうのとそんなに変わらない。ただ、それが体内にあって見ることが出来ないってだけ。そんな感じなのに、腸内で飼っている生き物たちによって、ぼくは生きているわけだ。彼らの機嫌が悪いと、ぼくの体調も悪くなる。思考も鈍くなるしね。アクアリウムの状況次第で家庭環境が変わるってことある?そりゃ多少は匂いが出ちゃったりしたら夫婦喧嘩にはなるだろうけどさ。すっごく不思議な感じ。
細胞だって、ずっと留まっているわけじゃない。どんどん入れ替わる。指紋はずっと変わらないし、顔だって老けたりしていくけど別人のように変化したりはしない。だけど、それを構成している物質はすっかり入れ替わっちゃっているんだよね。細胞レベルで見ると、来年のぼくはぼくじゃ無くなっている。いや、すっごいことよね。
ぼくをどこまでも分解したとして、どこまでがぼくだということになるのかね。切り落とした髪の毛は、それまではぼく自身だった。一部ではあるけれど、間違いなくぼく自身。それが、あっという間にぼくじゃ無くなってしまう。腸内細菌はぼくなのか。さっきの表現だと、どうもぼく自身のような気がしない。だけど、確実にぼく自身を構成している。
もう、またフワフワしてきたよ。
今日も読んでくれてありがとうございます。特に意味なんかないよ。仏教哲学っぽい感覚もあるんだけど、そういうのとも違う。なんだかフワフワした気分になるよねってことを共感してくれる人がいるかもしれないと思ってさ。ただ、書いてみただけ。